ふみあと
         木更津あひるの会20年のあゆみ
     
      
         あひるの会におくるうた
                     積田行雄作(千葉市)
       あひるの あは あるけのあ・あ
       あひるの ひは 楽しい ひるげ 
       あひるの るは ルンルン気分
       あひる 歩け
       いつまでも
       どこまでも
       
       あひるの あは 愛する あ・あ
       あひるの ひは 暖ったかく燃えて 
       あひるの るは ルリルリ光る
       あひる 歩け
       いつまでも
       どこまでも
       


                        表紙…中村 武
                         表紙のことば…35
     
  
          … 目次 …
     
あひるの会におくるうた…………………………………積田  行雄……1
発刊にあたり
あひるの会と木視協…………………………………御子神 源蔵……4
20年をふりかえって………………………………伊藤  義彦……5
     
あひるの会と私
  20年前の思い出 オジンのひとり言……………岩崎   修……7
     
  あひるの会と私………………………………………中村   武……8
     
  あひるの会、富士登山・伊藤さん…………………佐久間  実……9
     
  あひるの会に学ぶ……………………………………鳥沢  憲一……10
     
  思い出の記……………………………………………佐久間  敏……11
     
  ボランティア活動から得たもの……………………角田  廣行……12
     
20年のあしあと………………………………………………………13〜23
     
あひるの会に参加して
  遠き日の思い出……………………………………………瀬戸 緋佐枝……24
     
  あひるの会 万歳…………………………………………中野  建之……25
     
  あひるの会20周年に寄せて……………………………田代  昭彦……25
     
  あひるの会と私……………………………………………小林   巌……26
     
  楽しい一日…………………………………………………小俣  昭春……27
     
  楽しき出合い………………………………………………橋本 百合子……27
     
  音楽好きで努力家で根っから明るい私の仲間………洲崎  和猪……27

  ふれあいを大切にしよう…………………………………重田  繁夫……28
    
  あひるの会参加の追想……………………………………川口  好子……28
    
  山野精霊……………………………………………………宮崎 正三郎……30
     
  ヘルパーを体験して………………………………………竹内  美絵……30
     
  あひるの会ハイキングを体験して………………………渡辺  安代……31
     
  あひるの会に参加して学んだこと………………………臼井 ちとせ……32
    
  あひるの会の人々に接して………………………………榎本  勝子……32
     
  ヘルパーを体験して………………………………………山本 希美子……33
     
あひるの会20周年によせて……………………………鈴木  暉之……33
    
木視協会員  インタビュー………………………………………………35〜43
     
  野口 精、佐久間 敏、岩崎 修、きよ、岩井 正、栄子、佐久間 実、登美江、
  橋本 孝一、百合子、松崎由男、幸子、小俣昭春、酒井吉蔵、大胡 和、大胡良子、
  御子神源蔵、御子神和子、加賀美 豊、長倉とし、柴立末子、池田恵久子、
  池田 守、吉田 隆、小林 巌、小林千春、
物故者のご冥福…………………………………………………………………………43
     
あひるの会20年記念誌寄附者御芳名………………………………………………44


        発刊にあたり
       あひるの会と木視協
     
                     木更津視覚障害者福祉協会会長
                    「御子神治療院」 御子神 源蔵
昭和40年4月、第一回目のハイキングが行なわれました。私が初めて参加したのは、45年房州の富山へのハイキングです。
私事では、ありますがこの年の5月は、三女が誕生した年でありまして、この娘も今は中学の3年生、いやはや年月の長さを感じます。
この会が、あるき始めた40年、当時はまだ「あひるの会」という名前は、ついておらず、昭和42年に、富士山に行ったおりに、佐久間実氏によって名付けされました。
視覚障害をもつ私達が、ヨチヨチ、トコトコ右に、左にと歩くさまは、まさしくあひるの行進そのものでしょう。しかし、そんなあひるの行進でさえ、前に立って、つれて行ってくれる親あひるがいなければ、出来ません。私達の親あひる、それはリーダーの伊藤さん、中村さん、角田さん、鳥沢さん、そしてボランティアのみなさんでしょう。
このたび、あひるの会の20年史の作成にあたり、私が参加してからの思い出深い15年を、ふり返って考えてみました。
きつい山や坂、かなりの長丁場もありました。危険な下り坂でロープを張る木もなく、リーダーのみなさんや、ボランティアの方々がささえて通してくれました。この時ばかりは、本当に頭の下る思いでした。
また、キャンプやアスレチックなるものも体験させていただき、何十年ぶりの木登りやロープ渡りと思わず童心に帰った事も、なつかしく思い出します。幸いにも、雨により中止になった記憶もなく初夏の日差しを浴びてのハイキングは、足腰の訓練だけではなく、その日ばかりは、精神ともに健康になり、心より汗をかき、快い疲労を感じての、あのビールの味は、格別なものがありました。
私達が、この様な楽しさを味わっている影でこんな楽しさを私達に送ってくれる方々の努力は、大変なものが、あるでしょう。
ハイキングに行く場所の下見、ハイキング中事故が、おこらないようにとの心くばり等みなさん方の努力は、胸にしみいるものが、あります。なにせ連れて行くむずかしさを、一番理解できるのも、連れて行かれる私達なのですから……。
福祉活動、ボランティア活動等、毎日のように、テレビなどで耳にします。また、そうした活動が重要視されつつある今日ですが、20年も前から、地道に回を重ね、私達と、とっくり、つき合って下さっている方々へ、20年目という、このふしめの年に、今一度、私達は目をむけ頭を下げたい気持ちでいっぱいです。
また、この「ふみあと」の発刊にあたりましても、ひとかたならぬ、ご努力をいただき、木視協会員を代表し、心よりお礼を申し上げます。
      
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      20年をふりかえって
     
                         木更津あひるの会代表
                      「平岡郵便局」 伊藤 義彦
「木更津あひるの会」が誕生してから満20年を越えた。十年一昔と云うから二昔前になるわけであり、人間であれば成人を迎えたことになる。しかし、未来に向かっての20年は気の遠くなるような長さであるが、過ぎ去った20年は短い。目をつむってみると、20年前からの足跡がきのうの如く甦り、思い出される。
当時、私は南町の紅梅食堂に事務所を置く木更津アルペン山岳会に所属していたが、ある日、石原直哉会長から「木更津盲人会より定休日を利用して野山を歩きたいが案内を頼む旨要請があったので「春の野草を食べる会」と銘打って市民参加のハイキング会を催したい」と発表があった。計画が練られ、コースは、木更津自動車学校から霊園を通り林道鎌倉線を東南下し、矢那の河野牧場にて野草料理を味わいながら昼食ということになった。野草採集、及料理には荻野微風、島田睦、相沢一男の大先輩があたり私は石原会長と共にコースの案内を受持った。木更津東高校の瀬戸先生及び点字同好会の協力も得て参加者は五十人余りとなった。40年4月18日のことであった。その日は今にも雨の降り出しそうな膚寒い日で河野さんの御好意でたきぎを燃やし、また、しぼりたての牛乳を一缶いただき、生のままでごちそうになった。
 野草料理は荻野さんの報告(アルペンNO14)によると、たらの芽の落花生あえ、野蒜の酢のもの、芹のごまあえ、嫁菜、たんぽぽ、あざみ、よもぎのてんぷら、生しいたけに芹、みつば、嫁菜のおつゆは大鍋を丸太につるして作ったとある。当日の服装は和服を着た人、背広にネクタイ姿などスタイルはいろいろであった。雨模様であったので早目に切りあげ2時前の乗り合いバスで帰途についた。そして翌年、会長の佐久間敏さんからお話があり、瀬戸先生に協力をお願いし、鳥沢君と計画を練った。20回のハイキングの中で最も少ないスタッフであった。コースは、東粟倉ー神野寺ーマザー牧場で東高の点字同好会のほか、荻野、相沢、笈川、東条さん等の実年組と写真家の渡辺忠純さんも参加し、バラエティに富んでいた。南房総では、ポピュラーなコースであったが、雨後ですべりやすく、また杖が赤土にささってぬけず、かなり難儀した。その翌年、昭和42年の第3回は、菅野ー大福山ー養老渓谷コースで中村、近藤、渡辺香津枝、石井当志美さん、木更津局の小林、朝倉さんも加わり東高生も多数参加し、新緑の渓谷に若い声がこだました。そして、その年の7月、待望の富士山に挑戦するのである。佐久間敏会長から話を聞いた時、はたしてやれるだろうかと自信が無かった。個人的には秋の終わり頃に2回ほど登った経験はあるが、視覚障害者の富士登山は全国的にも例が少ないとのことで躊躇したが、もしだめなら自衛隊に頼んででも実現したいと云う強い意志を聞き、それならばみんなで力を合わせてやってみましょうと承知したが、27才の私にとってはおそらく一世一代の取り組みになるであろうと決意した。
 費用を安くあげるためバス一台を借り切り、不足分の参加者を一般募集した。参加希望者は五九名あり、木更津アルペン山岳会でリーダーとして活躍していた小沢一郎、神崎勝征氏にも応援を頼み万全を期した。参加者を5パーテーに分け、各パーテー毎にリーダー、サブリーダーを決め、木視協からの参加者十名には専属のヘルパーについていただいた。三日前に参加者全員に集まっていただき、打合会を開き、登山知識、心構え、注意事項について勉強していただいた。また会の名前が無いとなにかと都合が悪いので協議したところ、「ペチャ、ペチャ、ガア、ガアしゃべりながら歩く」ところから、「あひるの会」にしてはと云う意見が出され、本拠地の地名も入れて「木更津あひるの会」と命名、決定した。富士山での宿泊場所は日東交通に任せてあったが、たまたま、このことが千葉日報に掲載され、車内でこの記事を読んだという有吉出身で7合目に岩室を持つ鈴木昭司氏が来てくれて、是非とも使ってほしいとの申し出を受けた。その鈴木氏のお世話で富士山でも最もベテランという強力が引率してくれることになった。第一日目は天気も良く楽しいバスの旅で夕方には七合目の岩室に着いた。夕食後、仮眠して夜中の3時星空の中を全員元気良く、岩室を出発した。そして一歩一歩高度を上げていった。しかし夜が明けはじめる頃より天気が下り坂となり、やがて霧雨になり風も出てきた。雨に濡れたメンバーには疲労の色も見られ、長い行列の歩みも遅遅としてきた。9合目に近く頂上までは、あと少しであったが、下山のための体力も残しておかなければならない、各パーテーのリーダーを招集し協議した。強行、退却、と意見は分かれた。私は退くことを決断した。全員黙々として山を下った。その後姿を眺めながら涙が流れて止まらなかった。『山はいろんな姿をしている。晴天の日に容易に登頂できても、それで征服できたなどと思ってはならない。自己の力をふりしぼって登る体力も必要だが、退くことのできる勇気も必要ではなかろうか。この退却によって、富士山は、ますます高く尊いものになるでしょう。』会長の佐久間敏さんは、こう言って私を慰めてくれた。
 富士山を経験してから毎年5月に定着した山歩きも力強さを増した。第5回の三石山(43年)、第8回の富山、伊予ヶ岳(46年)、第9回の石射太郎山(48年)と実によく歩いた。特に石射太郎山では険しい尾根や沢筋を歩き終点に着いた時は日が暮れてしまった。第10回は記念として8月に亀山ロッジを利用してキャンプを行った。まだダムも出来ていなかったので、ロッジの下の河原に下りて、川の中に入って遊んだ。その後も南房総の山々に一歩一歩、踏みあとを記した。第11回の豊英ダム(51年)道巾が狭いため女生徒に車を一台一台止めてもらいドライバーに協力をお願いした第12回の清澄山(52年)そしてフィールドアスレチックを楽しんだ第13回の清和県民の森コース(53年)らくだのこぶの登り下りに苦労した第17回笠森観音コース(57年)芋煮会を楽しんだ第18回(58年)の台倉の渓流コース、ロープを張って小櫃川支流を渡った第19回(59年)、そして昨年の第20回記念キャンプ、などなど、思い出を追っていくと次々とその時の情景が浮かんでくる。しかし、20年を振り返る時、最も印象に残るのは、参加者ひとり、ひとりとの心の触れ合いではなかろうか。ヘルパーとして杖となってくださった、木更津東高校(1回〜7回)、木更津中央高校(11回)、清和短大附属高校(12回〜19回)各校の生徒さん、そして顧問の、瀬戸、中野、田代、喜古、先生、広い視野と大きな心のもとに校外活動を許可し支援してくださっている真板校長先生の力添えがなければでき得ないことであった。
 また、力の無い私をカバーし、無事故第一に細心の気配りと、わかりやすい説明をしてくれる中村先輩、自分の持ち場を100%以上果たし、いつも参加者を楽しくさせる鳥沢、角田君、気のつかないところを、きちんとやってくれている、洲崎、渡辺香津枝、松丘郵便局の鈴木局長、中村、角田両夫人、鴨田、近藤、重田さん等の暖かい心があったればこそ成し得たのである。
 そして、なによりも、毎年、毎年、野山を歩こうという木視協の皆さんの若さ、と強い意志の力があったからこそ続けられたのであります。私たちは、毎年のハイキングを通して、いつも、たくさんのおみやげをいただいています。光を失った世界が、どんなに、つらく、苦しいものであるか、私などはとても耐えられそうにもありませんが、全てに満たされながらも自らの命を絶っていく人が、毎日の新聞紙上に報ぜられている世相の中で、いたわり合いながら力強く生きている姿は私たちに「勇気と希望」と云う、目に見えない大きな贈りものを毎回与えてくださっております。私たちも、いつの間にか、おじさんと呼ばれる年代になってしまいましたが、木視協のみなさんに負けないよう体力づくりをして、30年、40年と更に続けてゆきたいと思います。
  
     
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あひるの会と私
   
     20年前の思い出 おじんのひとり言
     
             「岩崎マッサージ・県視協会長」  岩崎 修
 人の記憶は月日とともに薄れゆくものであるが、今なお忘るることのできない思い出、それは今からおよそ20年前、当時の木更津盲人会の佐久間敏会長から、野草を食べに行かないか、と誘われた時である。さても耳新しいことを聞くものかなと、早速仲間にさせていただいたことが、そもそもあひるの会の伊藤さんとの出合いの始まりであった。
私のように、昭和ひと桁生まれ、しかも先天的に目が悪いと、30歳半ばを過ぎていながら、ハイキングの楽しみなど、知る由もなかった。せいぜい学生時代に、大厳寺や八幡の八幡様に、遠足と称して往復10キロ、時には14、5キロメートルも、学友と共に楽しく歩いた経験はあるが、なにしろそれからは永い戦争が続き、日本の国力の限界を、大きな戦争に官民共に疲れ果て、消耗し尽して、敗戦をむかえるにいたったため、学生時代、遠足さえ、たびたびは経験していない。
 永い戦争が終りを告げたが、戦争による被害と物資不足のため、庶民は、ただ食べる為に必死に仕事を求め、働きに働いた。やがて日本経済復興が訪れ、そのまま高度経済成長期へと進み、日本経済はめざましく発展していった。
 カネヘン景気、イトヘン景気、神武景気、岩戸景気と一様に日本経済は四年目の節目を刻みつつ成長していった。そして日本の国自体、そして私達庶民もどうにか落ちついた生活ができる日々を取り戻すことができた時、私はもう30歳半ばを過ぎていた。
 たいへん前置きが長くなったが、要するに私達の世代には、レジャーもレクリエーションも無かったということで、勿論ハイキングの楽しさなど、知る由もなかった。そんな訳で、ハイキングの意味もよく解らずに初めはネクタイを締め、背広を着て、一張羅の革靴を履いて、ハイキングに出かけたものであった。よく先生や先輩から「不潔でみっともない身成りをしていると、軽べつされっど」と教えられていたので、バカの一つ覚えの悲しさ、おもてに出る時は身ぎれいに、の習慣がついて、山歩きするにも、ネクタイ締めて、背広を着て出かけた。律儀さといえば可愛げもあるが、今想えば悲しくも阿呆らしい話である。
 こうした物質的、精神的貧困の中に育った私は、今日このような豊かな社会をむかえても上手にレジャーを楽しむ知恵もなく、楽しみといえば仲間と酒を酌交し、話し合いを楽しむ程度のださいなオジンになってしまった。
 一年に一度、あひるの会で南上総の山を歩き、新緑の明るい空気を吸い、めったに出さない汗を5月の風にここち良く流し、豚汁をすする旨さは最高である。
 こうした小さくて素朴ではあるが確実な喜びを大切にしたいし、人の善意を大事にしたい。
 先日NHKの稲垣勝彦というアナウンサーと親しく話をする機会を得たが、彼はボランティアが朗読奉仕で録音テープを作る時、何もアナウンサー気取りで、淀みなく読むというよりも、むしろ聞き手に語り掛ける暖たかさ、真心がほしい。電話をかける時、相手は見えないのに、「ありがとうございます」と電話に深々と頭を下げると、その心が見えない相手に伝わるのですよ、と良い話を聞いた。
 先シーズンにプロ野球の阪神タイガースが優勝して、待ちに待ったファンが飛び上がり跳ね回り、いい年をした男達が抱き合って、空に向かって「ウオウ」と吠えているのを見た時、涙ぐむおもいでした。
 こうした庶民的な素朴さ、暖かさを大事にしてゆきたい。
 
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    あひるの会と私
     
                       「青堀郵便局」 中村 武
―アルペン山岳会のことー
 私が山登りを始めたのは、昭和36年頃だったと思う。大学の山岳部に籍を置いているという大学生に、町の「アルペン山岳会」という団体に入会を勧められた。
 当時、青春時代の真只中、登山には興味があったので、一つ返事で入会することにした。この「アルペン山岳会」に入会した事が、後の「あひるの会」との結びつきとなった。その大学生の名は石原直哉さんという人で、この石原さんに、本格的な山登りを厳しく教え込まれました。この頃は、1年の内の休日は、ほとんど山登りに費やす程、熱中したものだった。「登山」をスポーツとして、とらえた貴重な経験が、「あひるの会」の第4回の富士登山の際には、大いに生かされたし、用意周到の上で実行し、無事に終了出来た源となったと自負している。
 私は第3回から、あひるの会のハイキングに参加しましたが、第1回の河野牧場での、「野草を食う会」は、アルペン山岳会の石原会長を通じてのヒョンなつながりと聞いています。
 20年の間のハイキングを実行するにあたり、主だった人の程んどが、かつて、山岳会に属していて、その時の経験が、大いに役立っていると思います。
 ―木視協の人達とハイキングー
 生まれた子供が成人するまで、二昔も続いたあひるの会。何がそうさせたのだろう。
 一つには、各回のハイキングで多勢の人達の協力が得られた事だと思います。よく伊藤さんをはじめ、私達の名をあげ、感謝の言葉を頂きますが、この会を支えた大きな力は、何といっても、木視協の方達の手を取り、周囲の景色を説明し、一緒に楽しんでいただいた、名前を書ききれない多くの皆さん達だと思います。
 1年の中の1日、ハイキングで楽しみを共にする人達は、1度の人、2度の人、数度の人といろいろな人との出合いがありましたが、それぞれの出合いに助けられて、20年も続けられたと思っています。
 今一つは、木視協の人達の、自然に接したいと願う、熱意だと思います。なぜなら、今までのハイキングで、一度たりとも私達から「今年は○月○日にハイキングを行いますから、出掛けましょう」と誘ったことはなく、必ず、木視協の「あひるの会」の皆さんから、今年は「○月頃」ハイキングに行きたいので、という話を持って来てくれたことです。ですから、もし、途中で木視協の方々の私達への要請がなかったら、或は、中断されていたと思うし、今日の20周年を迎えることもなかったと思います。
 自然の中を歩きたいとの素朴な欲求が、私達への誘いとなって、表われていると考えます。
 ―娘のことー
ドアの陰に娘が隠れている。私が仕事から帰った物音を聞いて、隠れたのである。それに気付いている私は、知らない振りをして「ただいま」と、いって部屋に入ろうとする。娘は「ワッ」と大声を出し、私を驚かそうとした。私はわざとビックリしたように「おう驚いた」と、オーバーに表現する。
 「ビックリした?」と私に問いかけ、作戦の成功で得意気な笑顔をする。
 娘は7歳。この子をハイキングに連れて行く事が、長年の楽しみの一つであった。1年生になったら、5月のハイキングに連れて行こうと思っていたが、都合で実現出来ずに、2年生になってしまった。参加したのが、第18回の芋煮会だった。その日、清和短大附属高校の学生さんに甘えながら、娘はハシャギ廻った。
 その娘が、ハイキングから2ヵ月もしない、ある日忽然として、逝ってしまった。
 19回目のハイキング、20回のキャンプと私は、娘との最初で最後のハイキングの想い出が刻まれたレリーフを頭に描きながら歩いた。
 これからも「あひるの会」は続くことでしょうが、私の頭の中のレリーフが、やがてぼろぼろに風化するまで、ハイキングの楽しみと娘の想い出を複雑に交錯させながら5月の風の中でウグイスの声を聞くことでしょう。
 ―一緒に楽しむー
 私達があひるの会でハイキングを実行すると、その行動をボランティアと呼ぶ人もいますが、私はボランティアという言葉を好まない。だから一緒に楽しむハイキングはボランティア活動だと思っていない。一緒に楽しませてもらっている、と思っている。楽しむに当って、自分の好きだった山登りの経験を生かしているにすぎないと考えている。たまたま、体にハンデのある人に対し、ハンデの無い人が、その代りとなってカバーするのは、当然だと何時も思う。
 見方を変えて、体にハンデのある人は、人に甘えないで、力強く行動して欲しい。ハイキングで山を歩いている時のように、頼もしい姿で頑張ってほしいと、願っているのは、私だけではないと、思います。
 そういう姿で歩いている時こそ、お互いに楽しんだ事になるのではないだろうか。
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      あひるの会、富士登山・伊藤さん
    
 
                 「佐久間実鍼灸マッサージ療院」  佐久間 実
 昭和40年4月18日。
 その日は4月としては、寒い日でした。野草を食う会があるというので、参加してみました。請西から歩いて、矢那の河野牧場に着いたのは、10時半頃だったと思います。そこで生まれて初めてトラクターを、触らせてもらいました。その頃、空からは、ぽつぽつと小雨も降ってきて、なお寒くなりました。そうしたら焚火を“ぼんぼん”焚いて暖めてくれました。焚火の炎の暖かさと、雨の冷たさを、今、思い出しています。そのうちに、暖かい牛乳をいただき、タラの芽、野びる、アザミ、タンポポなどを、天ぷらをはじめ、色々料理していただきましたが、料理の味も然る事ながら、人の心の暖かさを、しみじみ思ったものです。
木更津「あひるの会」は、こうして始めましたが、その時はまだ、名前がありませんでした。その時、野里の伊藤義彦さんに初めてお会いしましたが、以後20年間、お付合いさせていただくと、いうことなど、考えもしませんでした。
 それから2年後、この会が、生涯忘れることの出来ない富士登山を、することになりました。そして、その打合せが、今、木更津西口開発工事現場になっている所にあった、郵便局の二階のホールで行われました。何しろ名前がなくては、困るというので、始めにその事を相談しました。
 そこで、とに角、本人は一生懸命歩いていても、側から見れば、“ヨチヨチ”歩きに見えるだろう。それでは、ユーモラスな「あひる」は、どうだろう。それでは「あひるの会」にしようと、いうことで、ここに誕生したという訳です。
 ところで、その富士登山ですが、42年7月23日から24日にかけて、行なわれました。9合目位登ったところで天候が急変し、横殴りの雨が、激しい風と共にやってきました。しばらく様子をみていましたが、遂に登頂を断念し、下山することになりました。リーダーの伊藤さんは、さぞ辛かったと思いますが、私も、雨ガッパを透して、冷たい雨が体を濡らし、無念の涙を流したものです。
 あれから20年、暖かい心の伊藤さんを中心に、綿密なプランの中村さん、乏しい会計をうまく、やりくっていただく角田さん、行動力バツグンの鳥沢さんをはじめ、真板先生の学校の職員、学生諸君、又、一般参加者等の善意に支えられて、こんなに永く続いてきました。初めから、こんなに永く続くと思った人は、余りいなかったと思います。
 私は今、危なっかしいけれども、とに角、平和が保たれている事、そして伊藤さんを中心として、永い間、この会を支えて下さった皆様に心から感謝を捧げたいと思います。
 そして、私が歩ける限り、この会が続くよう、祈りたいと思います。
      
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      あひるの会に学ぶ
    
                 「木更津郵便局保険課」  鳥沢 憲一
 長いようで短い20年。あひるの会が始まって20回。想い出して印象深いのは第1回の「野草を食う会」です。この会は、木視協の会員の方々と私達の先輩、相沢、荻野、島田さんとアルペン山岳会、郵便局、東高の先生、生徒さん達の協力で行われた。前日に野草を採り用意する者、料理の器材等を用意する者、始めてのことで勝手がわからずに夢中で進めたことが思い出されますが当日は参加者全員が野草に舌つづみを打ち、牧場のしぼりたての牛乳をごちそうになり、おまけに雨に降られたりしながらも楽しい1日でありました。
 第2回目は、スタッフの揃った前回と違い種々な事情で伊藤さんと二人で東高の瀬戸先生と生徒の皆さんの御協力で行いました。コースは東粟倉―鹿野山神野寺―マザー牧場という一番やさしいコースでしたが、東粟倉より少し進んで九十九谷の杉木立の中に入ると前日の雨で足場は悪く歩くのに困難なくらいでした。すべったりころんだりして苦しいコースでした。このコースは、木視協の皆さんも、その道に悪戦苦闘した想い出があるのではないでしょうか。途中は東高の生徒さん方が天使のように見えたものでした。最前と最後で伊藤さんと声をかけ合いながらリードして神野寺に全員が無事に着いたときのほっとした気持ちを今はなつかしく思い出します。第3回よりはスタッフも揃い多勢で大福山コースを歩いて木視協の皆さんも大分慣れ自信を持ってきたようでした。そこで第4回の富士登山の実現となりました。この回もいろいろな事を教えてくれましたが、なんと言っても「進むことよりも退く勇気」が一番心に残っています。9合目まで行きあと一歩というところで濃霧のため退いたのです。この事はあれから20年近く私の生活の中にも非常に大きな影響を与えてくれました。それから回が進んでくるにつれて寒風の中の梅花のシーズンが終り桃から桜の便りの聞える頃になると、木視協より連絡が有ったかなと心待ちになるこのごろです。伊藤さんの方に連絡が有ると、中村、角田さん四名でコースの下見が始まります。コースの選択、危険な所はないか、時間の割りふりはどうするか、等実際に歩いてみるのが又楽しみの一つです。よく他の人から20年もよく続いているねと言われる事がありますが、健康な人なら春に南風の中、若葉の光の中の野山を歩きたくなるのが自然ではないでしょうか。5月の風の中歩く習慣が身についている私達です。木視協の誘いがあり一緒であると多勢の方がなお楽しいという自然の思いがこの20年続いてこれたのです。叉、木視協の方々の熱意も第1回より変わることなく燃え続けています。幸いな事に第1回より東高、中央高校、最近では清和短大附属高校の先生方、生徒の皆さんのご協力が得られております。ことに校外学習という事でこの会に協力していただいております真板先生にお礼申し上げます。
 木視協の皆様方も20年を過ぎても気持ちは変わらず、でも体が実年?に入っていきますが、これからも体力作りに注意されて毎年、毎年続けてゆこうではありませんか。私も四十路の半ばすぎましたが、これより御一緒に歩んでゆきたいと思っております。
   
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    思い出の記
     
                   「佐久間一ッ灸本院」 佐久間 敏
 時は流れ、記憶も定かでありませんが、思い出すままに、山歩きのあれこれ、鉄筆の動くままに記します。
 その日、面識もない来客と、人生過ぎし方のいろいろ、止めどもない雑談の中で、私の仕事の室内作業が、足、腰の退化を起こしてはいないだろうか、一度、山歩きなどを計画してみてはどうだろうか、ということになり、後に解ったことですが、この方が、元、山岳会員荻野氏で、この方の友人で、記者クラブの石原氏を紹介され、現、平岡局長、伊藤さんに出会う機会を得ました。
 最初のプランは、河野牧場で、野草を食べる会が催され、請西の自動車教習所のところから4キロ程、山道を歩き、新緑のムシロの上で、昼食を野草料理で丁戴したことが、つい先頃の事のように、思い出されます。
それから次第に道程も増し、かなり傾斜の厳しい山道を、10キロ位まで、延ばしたように記憶しております。
 この20年間の山登りに、一人の落伍者も、障害事故もなかったことは、どんなにかヘルパーの細かい気配りのあったことか、計り知れないご苦労が思われ、頭のさがる思いで満たされます。
 それと同時に、会員の皆様が、思いの他健脚であった事、危険な区域はロープを伝わって無事通過し、又、幼児を背負い、勇敢に参画された婦人、7、80歳と思われる東条先生の事など、限りなく心に甦えってきます。
 私が初めに考えた足、腰の弱さ、これは、まったく誤解であった事、もう一つ、私なりに、この山歩きの収穫を考えて書き添えたいと思います。
 この時期が、日本経済成長、真盛りで、皆んなの心に、遊びの指向が芽生えていた、丁度その時期に発足したこと、もう一つ、この業界が徒弟制度の封建制から脱皮した時期であった事も、誘因となったのではないだろうか。
 少し、さかのぼりますが、私は、昭和16年に開業いたしました。その時、看板の肩書に、鍼灸専門と書きました。ところがある日突然二人の先輩が玄関先で、大声を張り上げて、お前の所ではマッサージは絶対しないというのか。突然の怒号に驚がくし、この業界の古老の頑迷さ、極端な偏見に肝を冷やした事がありました。その頃は、親睦融和どころか、商売がたき,得意を取った、取られた、今に思えば、想像も出来ない状態でした。
 世の中も一変したこともありましょうが、この「あひるの会」の誕生によって、緑の山野に1枚のジュウタンを広げ、和やかな会話、お得意の昼食を分け合う、そこにはまったく融和した親睦以外に、何物もないと思います。年に1回でも、このような機会を作っていただくことは、何より楽しい融和の手段であろうかと思う。
 この会が続く限り、この業界は、分裂も紛争もなく、発展の一途を登山のように、上を目差して進むことを確信いたします。
 なお、忘るることのできない思い出は、42年の富士登山でした。この足で直接踏みつけた、あの山の感触は、一生を通して忘るることのできない回想として、脳裏に焼きついています。
 早朝、山小屋を出た厳粛とも思えるすがすがしさ、8合目あたりの瓦礫の山道、もう少しで山頂という所で、摂氏2度の雨模様の悪天候に登頂を断念し、帰途についたリーダーの決断に、今も適切な鋭敏さを敬服の思いで記憶しております。何しろ、この足で富士に登った感触は、生涯忘れ得ぬ楽しい思い出として、記憶に残ることでした。
      
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      ボランティア活動から得たもの
    
                     「袖ヶ浦郵便局」  角田廣行
 野山の緑も一段と濃さを増し、5月晴れの空の下、すがすがしい風が頬を撫でる頃楽しいハイキングの季節がやって来ます。毎年、5月の連休を利用して実施されている目の不自由な人達との恒例のハイキングです。
 昭和40年「野草を食べる会」として発足したこの会も今年で21年、名前も「木更津アヒルの会」と命名、マスコットのアヒルのバッヂも出来ました。参加者も年々増え、市内の高校生のボランティアグループが積極的に参加してくれる様になり充実してきました。私が初めて「アヒルの会」に参加したのは、木更津郵便局へ入局した昭和42年でした、当時、庶務会計課に勤務していた伊藤会長のお誘いがあり参加しました。19才でした。
 最初の頃は、先輩に言われるままに行動し、ただついて行くと言う安易な気持ちで参加していましたが、目の不自由な人達との人間的な心の触れ合いを通じ、2回、3回と回を重ねるごとに暖かい友情が芽ばえ、街で会っても気軽に声をかけられる様になりました。
 当時、流行った「酒は白雪」の歌を反省会の席等で唄い、拍手を戴いたのもこの頃でした。以後この歌は私のトレードマークになりました。また「アヒルの会」の一大行事であった富士登山も私にとって忘れられない思い出です。郵便局の仲間、その他ボランティアの人達、伊藤会長の綿密な計画により実施されました。このニュースは、千葉日報の記者により県内に知らされました。私もこの一員として参加できた事を誇りに思っています。盲人会の積田好子さんが7合目で具合が悪くなり山小屋に残ることになったのです。伊藤会長に「角田君、一緒に残ってくれるか。」と言われた時、私は「はい」と快く答えました。皆と一緒に頂上まで登りたいという気持ちの反面、「自分はいつでも登れるんだ、丈夫な体でいつでも…。」と思いました。
 富士登山は私の人生経験に大きな教訓を与えてくれました。相手の身になって物事を考えること、身障者に対する心づかい、気くばりなどいろいろな事を学ばせてくれました。
 こうして様々な想い出をつくったハイキングも10回の記念キャンプ、そして20年目を迎えた今年、亀山ロッジにおいて行われた記念キャンプも盛会のうちに終了しました。伊藤会長を始め、中村先輩、鳥沢先輩、そして毎回盛り上げてくれるボランティアスタッフの力により「あひるの会」は限りない前進をつづけているのです。
 これからも「あひるの会」が益々充実し発展して行く事を願ってお祝いと致します。
      
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          20ねんのあしあと
    
         (イラスト)あひるの会バッヂ
                 作  平岡小学校1年(昭和55年)
                 いとう こういちくん
      
 参加者名簿を作成しなかった回は、写真を見て参加者氏名を掲載しましたので、記載もれもあろうかと思いますので悪しからず御了承ください。
      
     第1回 「春の野草を食べる会」  40年4月18日
 コース  木更津自動車専門学校―市営霊園―林道鎌倉線―河野牧場
  思い出  
 ・木更津アルペン山岳会(会長 石原直哉)が主催する。
 ・矢那の河野牧場をお借りし野草料理に舌つづみを打つ、しぼりたての生牛乳をいただく。
 ・雨もようの空でたきぎを燃やして暖をとる。
 ・初めてのハイキングでスタイルはさまざまであった。
  参加者
佐久間敏、岩崎修、岩井正、佐久間実、佐久間登美江、橋本孝一、橋本百合子、長倉新一、長倉とし、宮間博、御子神、大胡和、大胡おり、氏原寿代、吉田隆、石原直哉、相沢一男、荻野微風、島田睦、瀬戸緋佐枝、鳥沢憲一、重田繁夫、鈴木幸枝、神埼勝征、青木和也、伊藤義彦、木更津東高校点字同好会生徒(写真より)
  写真2枚
 1.野草料理に舌つづみを打つ
 2.河野牧場をあるく
      
     第2回 「鹿野山・マザー牧場」  41年5月
  コース  東粟倉―鹿野山神野寺―マザー牧場
  思い出  
 ・南房総では最もポピュラーなコースであるが、雨あがり後で、すべりやすく、リーダーは、鳥沢、伊藤の二人のみで東高の生徒を頼り、前と後ろで声をかけ合って、進んだ。
 ・東条、荻野、相沢 … 実年組多数参加。
 ・岩井一雅君、3才で初参加。
  参加者
野口精、佐久間敏、佐久間栄子、加瀬さだ子、岩井正、岩井栄子、岩井一雅、佐久間実、橋本孝一、橋本百合子、 長倉新一、吉田孝、磯貝章、積田好子、田村澄子、岩崎きよ、岩崎幸江、東条繁樹、荻野微風、相沢一男、渡辺忠純、立原、笈川、国吉、島野みよ子、大網、北崎、関口、東貞子、鳥沢憲一、伊藤義彦、瀬戸緋佐枝、木更津東高校点字同好会生徒(写真より)
  写真2枚
 1.鳥沢、長倉、野口、さん
 2.九十九谷展望台にて
   (集合写真)
      
     第3回 「大福山・養老渓谷」  42年5月
  コース  菅野―大福山―養老渓谷
  思い出
 ・新緑の萌える菅野からの尾根道、清流の音を聞きながらの養老渓谷までの沢筋と五月晴れの中で心地良いハイキングを楽しんだ。
 ・木更津郵便局の女子職員の参加でにぎやかであった。
 ・佐久間実さん夫婦、家増築中のため不参加。
 ・岩井一雅君をおんぶして歩いた。
  参加者
岩崎修、岩井正、岩井栄子、岩井一雅、橋本孝一、橋本一昭、大胡良子、大胡おり、大胡良美、氏原寿代、田村澄子、吉田孝、宮間博、小林英子、中村、朝倉瞳、立原啓三、立原ゆたか、瀬戸緋佐枝、木更津東高校点字同好会生徒、石井当志美、伊田玉枝、島野みよ、渡辺香津枝、近藤邦昭、鳥沢憲一、中村武、伊藤義彦(写真より)
  写真1枚
 1.大福山にて
   (集合写真)
      
     第4回 「富士登山」  42年7月23日・24日
  コース  富士吉田口、5合目―7合目(泊)―9合目(天候悪化のため下山)―砂走―馬返、須走にて入浴、休憩
  思い出
 ・有吉の鈴木昭司さん所有の七合目、岩室に泊めていただいた。
 ・天候が悪くなり、9合目より涙を飲んで引返した。
 ・直径1メートルほどの落石があったが運良く、列の間を通り抜けていった。
 ・ベテランの強力さんがガイドをしてくれた。
 ・須走りでみんなで入浴して楽しかった。
  参加者  チーフリーダー 伊藤義彦
1パーティ リーダー 中村武、サブリーダー 神埼勝征
佐久間実=石井当志美、佐久間登美江=篠田朝子、高橋二三子、宮崎すみ子、磯辺たか子、磯辺とく、曽我部
2パーティ リーダー 近藤邦昭
 積田行雄=積田弘子、積田好子=島野みよ、石塚恵美子、伊田玉枝、内藤茂、川名和江、唐鎌
3パーティ リーダー 小沢一郎、サブリーダー 重田護
 橋本孝一=瀬戸緋佐枝、鳥海寛=老川、渡辺香津枝、斉藤マサ子、永島芳子、松本ときよ、影山由美、伊藤俊輔
4パーティ リーダー 重田繁夫、サブリーダー 田辺勝男
 岩崎修=小沢幸夫、 岩崎きよ=岩崎幸枝、立原啓三、立原ゆたか、泉水喜和治、平野よし江、丸美佐子
5パーティ リーダー 鳥沢憲一、サブリーダー 角田広行
 佐久間敏=ラノルド・デヌーン、加瀬さだ子=栄子・デヌーン、佐久間あけみ、渡辺とみ子、平野せん、佐久間松基、森初江、高橋一子、平野せい子、宇野うめ。
                        以上 59名(名簿より)
  写真3枚
 1.小休止  積田行雄、佐久間登美江、近藤邦昭、さん
 2.浅間神社にて(集合写真)
 3.鈴木昭司さんと強力さんとリーダーの面々
      
     第5回 「三石山」  昭和43年5月12日
  コース  亀山駅―表参道(尾根道)―三石山―裏参道―亀山駅
  思い出
 ・三石に登り、手で確認して、その大きさと感触を味わった。
 ・トンネルが暗く、道が前夜までの雨でぬかっていたので、盲人会の先導で、無事通過した。
 ・亀山出身の石井当志美さんに案内していただいた。
  参加者
佐久間敏、佐久間栄子、岩井正、岩井栄子、岩崎修、佐久間実、積田好子、加瀬さだ子、橋本孝一、橋本百合子、小俣昭春、田村澄子、佐久間あけみ、
北村弘、白井友子、加藤典子、中村瞳、浅野篤一、石井頌子、伊藤俊輔、瀬戸緋佐枝、東高点字同好会、石井当志美、近藤邦昭、中村武、伊藤義彦(写真より)
  写真1枚
 1. 亀山駅前広場にて(集合写真)
      
     第6回 「林道鎌倉線」  44年5月18日
  コース  木更津自動車専門学校―上総高校
  思い出 
 ・わらび取りをしながら歩いた。
 ・山桜の咲く細道で弁当を食べた。
  参加者
佐久間敏、佐久間実、佐久間登美江、長倉新一、加瀬さだ子、岩崎きよ、積田好子、橋本孝一、佐久間あけみ、
樽田信夫、小沢安喜、小沢すみ子、東条繁樹、重田護、石井当志美、北村弘、伊藤俊輔、中村瞳、近藤邦昭、中村武、伊藤義彦、東高校生徒(写真より)
  写真1枚と地図
 1. 上総高校にて(集合写真)
         
     第7回「ふるさとの山路」  45年5月3日
  コース  木更津中央高校―三光路―宮田―横田滝の口
  思い出
 ・行き、帰りとも乗合バス使用、
 ・杉林の中の小径は心地良かった。
 ・滝の口へ出てから、石ころ道で転んだ人もあった。
  参加者 
野口精、佐久間敏、加瀬さだ子、花沢愛子、佐久間実、佐久間登美江、小俣昭春、小俣光子、岩崎修、橋本孝一、橋本百合子、橋本一昭、小林巌、松崎由男、池田幸二、東条繁樹、北村弘、石井当志美、近藤邦昭、角田広行、渡辺忠純、伊藤義彦、婦人会(写真より)
  写真1枚と地図
1.   
    三光路 杉林にて(集合写真)

     第8回 「富山 伊予ヶ岳」  46年5月2日
  思い出
 ・平群小学校で昼食をとり、希望者が伊予ヶ岳へ登った。
 ・富山の夏みかんをおみやげにした。
 ・金鈴ライオンズクラブの参加協力があった。
      
     いま登りし
    山を高しと仰ぎつつ
  野面に
    いばりしみじみはなつ
                     伊予ヶ岳にて
                     久米芳山
  参加者
鳥海寛、野口精、佐久間敏、佐久間あけみ、高橋正幸、長倉新一、長倉とし、長倉たかお、長倉恵、岩崎修、岩崎きよ、佐久間実、佐久間登美江、橋本孝一、加瀬さだ子、岩井栄子、岩井一雅、田村澄子、花沢愛子、積田好子、酒井吉蔵、御子神源蔵、松崎由男、池田守、猪狩、児玉、
渡辺忠純、宮崎正三郎、加藤長治、池田幸二、宮本三郎、小沢安喜、小沢すみ子、立原、斉藤富士男、萱野悟、重田護、石渡まさ子、朝生起一、北村弘、平野和雄、天羽幸子、角田憲男、石井茂、鳩飼、伊藤俊輔、近藤邦昭、中村武、角田広行、伊藤義彦、(写真より)
  写真2枚
 1. 富山にて 後方は伊予ヶ岳(集合写真)
 2. 伊予ヶ岳をめざして
         
     第9回 「野猿の石射太郎山」  48年5月6日
  コース  植畑―石射太郎山―高宕神社―尾根道―トンネル
  思い出
 ・最も長いコースで、日が暮れてしまい、かけ足でバスまでたどりついた。
 ・丸木橋を渡り、木の根の道を歩いた。
 ・神社の階段が長く、風穴をぬけた。
 ・もうこりごりだと云う人もいた。
  参加者
積田行雄、野口精、佐久間敏、加瀬さだ子、岩井正、岩井栄子、岩井一雅、佐久間実、佐久間登美江、高橋きみ、大胡良子、氏原寿代、小俣昭春、小俣光子、長倉新一、長倉とし、橋本孝一、橋本百合子、橋本一昭、小沢安喜、小沢すみ子、萱野悟、斉藤富士男、石井利幸、重田繁夫、水野、高梨、角田広行、角田まさ子、近藤邦昭、中村武、伊藤義彦、伊藤俊輔(写真より)
  写真1枚
 1. 猿の餌付場にて(集合写真)
      
     第10回 「10回記念 亀山キャンプ」  49年8月10日〜11日
  思い出
 ・ダムがまだ造られておらず、小櫃川に入って遊んだ。
 ・キャンプファイヤーの酋長に佐久間敏さんが選ばれ、式はおごそかに進行し、ゲームや歌で楽しんだ。
 ・童心にかえり、一晩中、語りあかした人もいた。
 ・盲導犬を伴い中村義正さん一家が遠くから参加してくれた。
 ・松崎由一君が当時3才で河原で遊んで砂まみれになり、川の中で洗った。現在は柔道選手で、たくましい体つきとなった…。今昔の感あり。
  参加者
中村義正、中村しず子、中村栄子、中村一弘、加瀬さだ子、野口精、長倉新一、長倉とし、長倉恵、長倉孝雄、佐久間実、佐久間登美江、酒井吉蔵、吉田隆、松崎由男、松崎幸子、猪狩文重、大胡良子、御子神源蔵、御子神和子、御子神富枝、御子神よし子、岩井正、岩井栄子、岩井一雅、橋本孝一、橋本百合子、橋本一昭、氏原寿代、氏原すみ子、積田好子、岩崎修、岩崎きよ、古川、
小沢すみ子、桜井義一、斉藤とも子、伊藤みえ子、林しずえ、萱野悟、安斉光紀、渡辺忠純、平方謙次、谷中万里子、竹崎正、鈴木暉之、石井利幸、滝沢隆一、角田広行、鳥沢憲一、中村武、伊藤義彦(名簿より)
  写真3枚
 1. 亀山ロッジにて(集合写真)
 2. 川の中で滑った岩井栄子さんと、伊藤さん 左から 滝沢、鳥沢、中村義正、さん、と盲導犬
 3. 河原でゲーム 中村さん 大胡さん
      
     第11回 「豊英ダム周遊」  51年5月2日
  思い出
 ・豊英ダムのサイクリングコースを歩いた。
 ・吊り橋を渡りゆれ方感触を味わった。
 ・小林巌さんがギターを持参し、その伴奏で合唱した。
 ・木更津中央高校のローターアクト・クラブ生がヘルパーとして協力してくれた。
 ・鳥沢明子さんが初参加、現在高校2年、剣道初段。
  参加者
野口精、加瀬さだ子、積田好子、高橋きみ、岩崎修、岩崎きよ、岩井正、岩井栄子、岩井一雅、岩井泰憲、佐久間実、佐久間登美江、長倉新一、長倉とし、長倉恵、御子神源蔵、御子神和子、御子神とみ、小林巌、重田繁夫と子供三人、斉藤富士男、竹崎、塩沢良二、近藤邦昭、鳥沢憲一、鳥沢明子、角田広行、中村武、伊藤義彦(写真より)
  写真2枚
 1. 橋を渡り、ガケを登り
 2. 広い林道で(集合写真)
      
     第12回 「清澄山」  52年5月3日
  コース  黄和田畑―清澄温泉―清澄山
  思い出
 ・清和短大附属高校の生徒がヘルパーとしてこの回から参加。
 ・ガケ道で道巾が狭いうえに車の往来が多いので附属高校の生徒に車を止めてもらってから進んだ。
 ・河原に降りて昼食をとった。
 ・中村則之君が参加し、川の中で転んでずぶぬれになり、トリサンのジャンバーを着せた。
  参加者
野口精、酒井吉蔵、長倉新一、長倉とし、長倉恵、長倉孝雄、松崎由男、松崎幸子、松崎由一、橋本孝一、橋本百合子、橋本幹和、御子神源蔵、御子神和子、小俣昭春、小俣光子、岩崎修、佐久間実、高橋きみ、猪狩文重、樽田信夫、鳥沢憲一、鳥沢明子、宮崎正三郎、鳩飼、洲崎和猪、洲崎浩、洲崎晴子、中村武、中村則之、角田広行、伊藤義彦、
清和短大附属高校、中野先生、生徒11名(氏名不明)(名簿より) 
  写真1枚
1.   
    千年杉の前で(集合写真)
      
     第13回 「清和県民の森とアスレチック」  53年5月5日
思い出
 ・ロマンの森ハイキングコースを歩きアスレチックを楽しんだ。
 ・木視協のみなさんの、旺盛なチャレンジ精神には驚いた。
  参加者
佐久間敏、デヌーン栄子、ダニエル・ラン・マーガレット、クリスチーナ、小林巌、小俣昭春、小俣光子、大胡和夫、大胡良美、御子神源蔵、御子神和子、佐久間実、佐久間登美江、岩崎修、岩崎きよ、橋本孝一、橋本百合子、橋本幹和、山下君江、山下まり子、山下やよい、岩井正、岩井栄子、岩井一雅、岩井泰憲、磯崎春江、磯崎美江、吉田隆、松崎由男、松崎幸子、松崎由一、松倉きよ、長倉とし、長倉たかお、鶴岡忠之、鶴岡敏之、宮崎正三郎、渡辺忠純、石井利幸、重田陽子、重田政明、角田広行、中村武、中村則之、伊藤義彦、清和短大附属高校中野先生、田代先生、松下美千子、赤松美穂、佐藤真弓、石井典子、綾野みどり、白井百合子、竹内照枝、本間栄子、斉藤直子、坂脇幹子、多田佐智子、高野由美子、高橋葉子、鈴木理恵、関真智子、吉田真澄、橋本洋子、ガールスカウトちば14団、鳥海えり子、石原理枝、西谷阿希子、高品和子、金田久子、金田京子
  写真3枚
 1. 落ちたら大変 左から 佐久間実、デヌーン、佐久間敏、さん
 2. バランスがポイント 岩崎修さん
 3. アスレチック場にて(集合写真)
      
     第14回 「市原市民の森」  54年5月
  思い出
 ・養老渓谷方面のコースを探している途中で偶然に見つけた市原市民の森ハイキングコースで、「つばきコース」「あやめコース」の二通りがあったが、山道がよく整備された「つばきコース」に決定した。
 ・「つばきコース」をぬけたレンゲ草の咲く田んぼの中で、フォークダンス、のど自慢、ゲームを楽しんだ。
 ・コース探しで早起きになった。
  参加者
長倉とし、佐久間実、佐久間登美江、松崎由男、松崎幸子、松崎由一、花沢愛子、柴立末子、柴立智子、柴立安男、高橋きみ、岩井栄子、岩井一雅、岩井泰憲、橋本孝一、橋本百合子、岩崎修、小林巌、大胡和、大胡良美、佐久間敏、佐久間豪、吉田隆、積田行雄、ダニエル、マーガレット、クリスチーナ、松本啓助、松本きよみ、桑田美恵、宇山静男、立原、鶴岡忠之、石井利幸、鈴木暉之、鈴木さなえ、宮崎正三郎、角田広行、角田まさ子、角田正明、鳥沢憲一、鳥沢明子、中村武、中村則之、伊藤義彦、清和短大附属高校、田代、中野先生、多田佐智子、柏崎美幸、坂脇幹子、島田美千代、武田加代子、三好明美、島崎玲子、小野寺初恵、高橋葉子、川崎千絵、茂田春美、鈴木理恵、有安恵美子、実松由紀子、中野町子(名簿より)
  写真3枚
 1. 春風が心地良い尾根道
 2. ジェンカを元気よく 橋本さん 岩崎さん
 3. バスをおりた広い道で(集合写真)
      
     第15回 「亀山 − 大福山」  55年5月4日
  コース  蔵玉―大福山
  思い出
 ・参加者が多く、一台のバスに乗りきれず、乗用車に分乗した。(参加者76名)
 ・蔵玉の出発点で亀山郵便局、朝生博局長から、亀山の案内激励のあいさつがあった。
 ・大福山山頂の展望台で昼食をして、歌を楽しんでいるところで雨が降り出し、急いで下山した。
 ・ロータリーアクトから3名の参加があった。
  参加者
岩崎修、岩崎きよ、橋本孝一、橋本百合子、橋本幹和、御子神源蔵、御子神和子、娘夫婦、御子神はるえ、小林巌、吉田隆、松崎幸子、松崎由一、佐久間実、佐久間登美江、岩井栄子、岩井一雅、岩井泰憲、氏原寿代、加瀬さだ子、花沢愛子、鴨川重美、鴨川幸枝、清野菊子、大川あつ子、松倉きよ、児玉理恵子、積田行雄、藤方一雄、工藤健一、長倉とし、谷中勝実、谷中寿子、谷中貴宏、松本陽子、渡辺喜代子、武次涼代、鈴木暉之、角田広行、角田まさ子、角田正明、鳥沢憲一、鳥沢明子、中村武、中村則之、伊藤義彦、清和短大附属高校、田代先生、田代あみゆ、岡春美、松野清美、加藤幸子、松田尚美、光井裕子、山下摩利子、野田代志美、佐藤恵美、坂本由起子、川名早苗、武田加代子、島崎玲子、進藤宏美、小野寺初恵、田中みどり、今野比佐子、三好明美、渡辺和子、野村康江、島田三千代、柏崎美幸、坂脇みき子(名簿より)
  写真1枚
 ・大福山への分岐点にて(集合写真)
           
     第16回 「香木原―三島ダム」  56年5月
  コース  香木原小学校―三島ダム
  思い出
 ・車の往来がなく、静かなハイキングコースであった。シイタケを栽培している杉林の中で昼食をとった。
 ・三島湖でゆっくり休憩した。
  参加者
長倉とし、佐久間実、佐久間登美江、吉田隆、橋本孝一、橋本百合子、橋本幹和、児玉理恵子、関谷陽子、岩崎修、岩崎きよ、松崎幸子、松崎由一、花沢愛子、御子神源蔵、御子神和子、御子神富江、積田行雄、市原敦子、氏原寿代、加瀬さだ子、小林巌、清野菊子、岩井栄子、鴨川重美、鴨川幸枝、角田まさ子、角田正明、鈴木暉之、広瀬茂、広瀬文子、鳥沢憲一、中村武、伊藤義彦、清和短大附属高校、田代先生及び生徒(写真より)
  写真2枚
 1. 出発前の体操 背のびの運動
 2. 杉林をバックにして(集合写真)
       
     第17回 「笠森観音」  57年5月3日
  コース  鶴舞自然公園遊歩道コース  笠森観音―蔵持ダムー笠森保養センター
  思い出
 ・笠森観音からの尾根伝いのコース(らくだのこぶコース)は、起伏のある急な坂道であったので、ロープに50センチずつの結び目を作り、転げ落ちないよう、一歩一歩、慎重に下った。
 ・蔵持ダムでお弁当を食べ、グループ毎に分かれて、のど自慢を楽しんだ。
  参加者
佐久間実、佐久間登美江、橋本孝一、橋本百合子、橋本幹和、御子神源蔵、岩崎修、長倉とし、小林巌、花沢愛子、吉田隆、岩井正、岩井栄子、岩井泰憲、積田行雄、藤方糸、大川淳子、大川和彦、大川信子、佐久間美智代、佐久間豪、マーガレット、クリスティーナ、加賀美豊、角田広行、角田まさ子、洲崎和猪、洲崎浩、中村武、中村則之、伊藤義彦、清和短大附属高校、田代先生、田代喜子、田代歩、石橋和代、安部裕美、桑原君枝、大須賀百合子、古賀明子、岡晴美、竹内美絵、松田尚美、砂野和美、渡辺和子(名簿より)
  写真2枚
 1. らくだの下り 積田行雄さん
 2. 笠森観音前にて(集合写真)
      
     第18回 「高宕山いも煮会」  58年5月5日
  コース  植畑―高宕畑―榛沢家にていも煮会
  思い出
 ・伊藤幸さんのふるさとのいも煮会を参考にとり入れ「高宕山いも煮会」として実施した。
 ・この会を実施するにあたって、石射太郎山野猿の餌つけ人である榛沢(はんざわ)さんのご協力をいただき、いも煮会々場として、庭をお借りした。
 ・ハイキング組と、いも煮会準備組とに分れ、いも煮会準備組の鳥沢、洲崎両氏による料理が好評で何杯もお代わりした。
 写真2枚
 1. 頂上の民家で(集合写真)
 2. お代わりどうぞ 左から 鳥沢、洲崎、角田、さん
  参加者 
岩崎修、岩崎きよ、橋本孝一、橋本百合子、橋本幹和、御子神源蔵、御子神和子、佐久間実、佐久間登美江、小林巌、松崎幸子、松崎由一、野口精、吉田孝、岩井正、長倉とし、鴨川重美、鴨川幸恵、鴨川恵美、鴨川由美、高橋エツオ、高橋ヨシミ、加賀美豊、飯島玉野、角田広行、角田まさ子、角田美保子、角田由美子、角田正明、鳥沢憲一、洲崎和猪、中村武、中村瞳、中村則之、中村香織、伊藤義彦、伊藤幸、伊藤浩一、伊藤哲也、清和短大附属高校、喜古先生、石橋和代、安部裕美、河原京美、矢沢明美、米沢宏美、小沢真弓、池端英子、林由美子、川副千恵子、神保昌代、榎本勝子、竹内美絵、吉田ゆかり、村沢薫、猿渡隆子、福嶋清子(名簿より)
      
     第19回 「滝原・豚汁会」  59年5月3日
  コース  門生―小仁田―滝原
  思い出
 ・前年度のいも煮会が好評で、木視協からの要望があり、河原での豚汁会となった。
 ・豚汁の肉は、中里の鈴源商店より寄贈を受けた。
 ・前日の雨でコースが悪く山道はぬかるみが多く苦戦した。
 ・小櫃川支流を渡る時、川床が滑りやすいため、ロープを何本か渡し、一人一人、確保しながら進んだ。
 ・豚汁係は、鳥沢、洲崎、鴨田、小俣光子、伊藤幸が担当した。
 ・松丘局長の鈴木暉之さんがツルハシ、スコップを使って、川の下り口、川床を整備してくれて、助かった。
 ・附属高の榎本勝子さんが野口精さんのヘルパーとしてロッジにて待っていたが、近くを案内してくれて、野口さんは大喜びであった。
 ・NHKの高浦記者とカメラマンが同行し、ハイキングの模様が6時のローカルニュースで放映された。
  写真1枚
 1. ロッジ前の河原にて(集合写真)
  参加者
野口精、橋本孝一、橋本百合子、橋本幹和、岩井正、岩井栄子、岩井一雅、小林巌、小林千春、小林美穂、小林直樹、佐久間実、佐久間登美江、小俣昭春、小俣光子、岩崎修、岩崎きよ、柴立末子、長倉とし、加賀美豊、吉田隆、御子神源蔵、御子神和子、御子神春江、小松美知子、渡辺正一、鴨川重美、鴨川幸恵、鴨川恵美、鴨川由美、山岸等、三平広、鈴木暉之、洲崎和猪、鴨田富男、鳥沢憲一、角田広行、角田まさ子、角田正明、角田美保子、角田由美子、中村武、伊藤義彦、清和短大附属高校、田代先生、喜古先生、臼井ちとせ、榎本勝子、藤巻邦子、福中裕子、駒井佳世子、山本希美子、池端英子、矢沢明美、米沢宏美、西原麻里子、井上多美子、荒巻弘美、堀川。(名簿より)
      
     第20回 「20回記念亀山キャンプ」 於 亀山ロッジ  60年8月4日〜5日
  思い出
 ・夏休みのため、利用者が多かったが、他のグループへ迷惑をかけては悪いので管理人の鴇田さんにおねがいして借りきった。
 ・ 往復の交通機関は国鉄を利用した。
 ・ ワインを豊富に入れたヨーロッパ風カレーライスは、好評で料理長の鳥沢、副料理長の渡辺香津枝さんは、ご飯の不足を心配した。
 ・ 河原のキャンプファイヤーは、酋長に岩崎修さんが選ばれおごそかに進行した。
 ・各バンガロー毎に分かれて出しものを考え発表した。しかし、以外にふるわず、終盤になってから飛び入りも出て、ようやく盛り上がった。
 ・キャンプの夜が惜しく、朝まで語り明かした人もいた。
  参加者
小林巌、小林千春、小林美穂、小林直樹、市原滋男、市原弘子、市原とし美、御子神源蔵、御子神和子、松崎幸子、松崎由一、小島つね、小島ひろ子、岩井正、岩井一雅、岩井栄子、岩井泰憲、渡辺よし、長倉とし、飯島、加賀美豊、岩崎修、鴨川重美、鴨川幸恵、鴨川恵美、鴨川由美、橋本孝一、橋本百合子、佐久間実、佐久間登美江、吉田隆、大胡良子、池田守、池田恵久子、渡辺香津枝、渡辺安代、鈴木暉之、洲崎和猪、近藤邦昭、角田広行、角田まさ子、角田正明、角田美保子、角田由美子、小林一久、鈴木忠宏、鳥沢憲一、中村武、伊藤義彦、児玉理恵子、洲崎千恵子(名簿より)
  写真5枚
 1.キャンプの朝(集合写真)
 2.久留里線亀山行 左より 御子神夫妻、佐久間実夫妻、渡辺安代、さん
 3.キャンプファイヤー 「聖火・点火」
 4.出しもの発表
 5.朝食の準備 渡辺安代さん、児玉理恵子さん
      
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       あひるの会に参加して
      「遠き日の思い出」
    
                     「木更津東高校」  瀬戸 緋佐枝
 20年。永くも短かくもあった20年だ。確か初めは「名無し」の会であったが、富士登山の折だったか「アヒルの会」と名がついた。その山行の出発を前に「アヒルのように、歩みはのろいけれど、地に足つけて、ゆっくり、ユーモアに…」というような命名の挨拶があった。今でもアヒルの会というのだろうか。
10年余りもご無沙汰しているので、すっかり忘れてしまっていたが、伊藤義彦さんから電話をいただき、第1回から山の名をお聞きしたら、思い出の重い扉が徐々に開いて、薄明かりの中に、房総の山々と、手に肩に心に触れた誰れ、彼れのぬくもりが、ゆっくり浮びあがってきた。
私は第1回から、7、8年間毎年点訳同好会(木更津東高校)の生徒、あるいは卒業生、友人たちと共に参加させていただいた。第1回は昭和40年、矢那方面。それまで点訳という面で盲人の方との接触は多少あったが、集団で、野外でということで生徒共々少なからず緊張したことを覚えている。手をつなぎ、肩を貸して歩く中、盲人の方々が周りの草木の名を良く知っていらしゃるのに驚かされた。この時は確か、どなたかが用意してくださった野菜や、野草をその場でテンプラにしていただいたように覚えているが、学生時代から山が好きで方々歩いているので別の会の記憶とダブっているかも知れない。4、5年前お目にかかった折、岩井さんに「あの時おんぶして貰った息子が大学生です」と挨拶され、20年の重みをしみじみ感じさせられた。
第4回は昭和42年、富士山、何といっても富士登山は圧巻だった。出発前、団長さんの「不本意であるけれど地方新聞に出てしまった。事故の無いことを第一にして、気負わずに行こう」との挨拶が爽やかだった。頼もしい山のベテラン(郵便局の方が中心)の方々が多く、私など盲人のお世話より、自分のことだけ考えていれば良い山行だった。それだけリーダーはじめその周辺の方々の心くばりは大変なことだったと思う。その方々が岩場では身体で谷側を確保して下さり、私たちは山側を鎖を頼りに一歩一歩登った。また山小屋ではトイレに起きた人が万一道を誤って落ちてはいけないと、交代で寝ずの番をして下さった。
山は一にも二にもお天気次第。山小屋での一夜が明けた朝は残念ながら曇っていた。いよいよ頂上と登るうち、ガスもどんどん深くなり、風も横なぐりに吹きつけ、身体を、頬を烈しく打った。頂上まであと○○メートル(9・?合目)の地点でリーダーを囲んで相談がなされ、下山と決定した。確か須走口を下山したと思うが、3人で1組になりロープで結び合い盲人の方を先頭にして二人が後でふんばって確保するという形で下りた。私はどなたと組んだのか覚えていないが、風が強く、下から吹き上げる向かい風であることにほっとしながら、石混じりの砂に足をめりこませて、石といっしょにころがるように下りた。
 帰りのバスは明るかった。伊藤さんは、その車中で私が智恵子抄を歌ったことをよく話される。「智恵子は東京に空がないという、ほんとの空がみたいという…」あの「あどけない話」を暗唱して歌ったのだという。自分ではすっかり忘れていたが、今回古いアルバムを開けて見たら、そこには20代まっただ中の気恥ずかしいような私がいた。富士登山も、その一頁であった。
 あれから20年。点訳も点字同好会も細々と続いている。山行にはご無沙汰してしまったが、今日までずっと続けて来られた方々のご努力に心から感謝しながら、これを機会にまた仲間に入れていただこうと5月を心待ちしている。
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      「あひるの会 万歳」
    
                     「清和短大附属高校」 中野建之    
 あひるの会が20周年を迎えたとのこと、山仲間のつき合いは情に深いものと聞いているが、それにしても素晴らしい。まして木更津盲人会の方々と共に歩んでこられたことは大変な業績でもある。
 私も山は好きな方だが、一人で孤独に歩くことが多かった。もっとも三十路を過ぎてからは、ほとんど登ることもなくなったのだが、あひるの会との出会いも、昭和53年頃に本校でJRCを創立し、たまたま、伊藤さんからお手紙をもらったか、こちらから頼んだかして君津の県民の森に生徒、7名を連れて行ったのが最初だった。笛をぴいぴい鳴らしたり、川原で芋を食べたり、手をつないで盲人会の方々とお話ししながら、君津や市原の山を歩いたことがなつかしく思い出される。
 あの当時の生徒は、みな24才、母親であったり、保母さんや、歯科助手、小学校教諭などで多方面に成長している。
 私はその後、4回程、ご一緒したものの、後は田代先生に引き継いでいただいた。そして現在の喜古先生まで、毎年、本校とのおつき合いが続いている。
 あひるの会には、今の生徒にない情があり、暖かさがある。それが20年続いた理由であろう。生徒達にやさしさはあっても、それを行動にうつすことが出来ない。そういう意味でも、あひるの会を良き手本としたい。
 私自身、40の坂を越え、白毛も大分目立ってきた。山登りには、正直おっくうになっている。伊藤さん始め、みなさん達者でいる。近々、山歩きでもしようと思う。
 あひるの会、万歳!
         
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      「あひるの会」20周年に寄せて
    
                     「市原中央高等学校」  田代昭彦
 「あひるの会」という地道な地域での活動が既に20年という輝かしい歳月を経過してこられましたことに対し、謹んで心から敬意を表しお祝い申し上げます。
 私は今年の4月から同じ君津学園傘下の市原中央高等学校の方へ移動致しましたが、清和短期大学附属高等学校に在職中、青少年赤十字(JRC)の顧問をしていた関係から、5〜6年前に「あひるの会」の活動に参加させて戴く機会を得ました。木更津盲人会の方々が毎年1回爽やかな新緑の山野を心行くまで歩くという催しは全国でも珍しい地域活動であると思います。この「あひるの会」が20年も継続されてきた蔭には地域の郵便局関係者の献身的な奉仕活動があったればこそだと思い敬意と感謝の念でいっぱいです。特に「あひるの会」の主たる行事であるハイキングを実施する為に、視力障害者の方々が安全にしかも快適に山歩きできるような山野のコース選びや日曜日などを使って何回も現地踏査など目に見えない配慮と御苦労があってこそこのハイキングが今日まで続いてきたのだと思います。そうした慎重な計画が出来上がりますと、早速、清和短大附属高等学校の真板校長の所へ学生・生徒の協力要請のため、インクの臭いも新しい「あひるの会」のパンフレットを持参されました。学校長から『視力障害者の皆さんがたいへん楽しみにしておられる「あひるの会」のハイキングが今年もあるそうだから生徒に呼び掛けて協力してあげなさい』と直接職員室までそのパンフレットを届けてくれます。生徒の方でも毎年恒例になっているこの行事が待ちどおしいらしく、あまり連絡が遅いと今年はいつ「あひるの会」のハイキングがあるのですかと催促に職員室のわたしのところへ聞きにきた年もありました。ここ10年くらい前からボランティアとか奉仕活動について各方面からいろいろ言われておりますが、この「あひるの会」はそれ以前からこつこつと継続されている活動で平岡郵便局の伊藤会長さんをはじめ郵便局の皆さんや木更津盲人会の方々との友情と信頼関係は素晴らしく私たちは教科書に書いてない福祉を実践できるという貴重な体験を学生時代にさせてやれることが何よりも素晴らしいことだと思っております。視力障害者の方々は私達以上に心が明るくしかも和やかで、季節に非常に敏感で情感が木目こまやかな方々が多くむしろ健常者の方が暗い性格の人も多いような気がいたします。山を介助しながら歩いていると近くでウグイスの冴えずる声がすると立ち止まって耳を傾けられたり、いい薫りの野の花にも心で感じとられたり、歩くのも思っていましたよりも比較的早くお元気なのには驚きました。私が一緒に参加させて戴いたのは清和県民の森でのフィールドアスレチック・亀山の河原での芋煮会・蔵玉大福山コース・香木原〜三島湖畔・笠森観音〜市原市民の森のコースなど思い出がたくさんありますが、コースの途中でロープを張って安全を確保される人々には頭が下がります。また、川を渡るときの誘導・芋煮会の諸準備や物資・道具の運搬など限りない労力奉仕に感銘を受けた次第であります。現在若いしかも情熱的な喜古教諭に指導をバトンタッチは致し安心しております。これからも視力障害者の方々のために、また青少年の社会奉仕教育の機会のためいろいろ御指導・御協力の程懇願申上げ、最後になりましたが「あひるの会」の益々の御発展と会員各位の御健勝・御多幸を祈念致します。また、機会があれば一緒に参加させて戴きたいと思っております。
       
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      「あひるの会と私」
    
                  「小林鍼マッサージ治療院」  小林巌
 あひるの会というのは年に一度、平岡郵便局の伊藤さん始め、ボランティアの方々が木視協をハイキングに連れて行ってくれる行事のことです。
 もくもくと歩く行列を他人が見たらどう思う事でしょう。さぞかし天下の奇観とばかり、奇異な景観に目を見張ることでしょう。しかし、何かにつけ不如意な暗たんたる生活を送っているためか、大自然の懐に抱かれて徘徊するあひるの会は、何時の間にか私には掛替えのない必須なものになっているのです。
 風薫る春の息吹を一ぱいに受け、木漏れ日の中、一蓮托生と洒落こんだヘルパーの方に総てを委ね行雲流水の如く杣道を歩くのです。草花を手折り、草いきれをうけ野鳥の声を聞き清冽なせせらぎの水音を一服の清涼剤に思わず歩を止め涼やかな歌声のまじる微風のハンカチで流れる汗を拭うのです。それは毎日の煩らわしい喧そうから逃れ一人では到底味わうことの出来ない此の世の極楽、正に浩然の気を養ってくれるビッグイベントなのです。
 袖振り合うも他生の縁等と申しますが、若輩の私は20年前の経緯は詳らかではありません。(つまづく石も縁の端)きっと先輩諸氏の間に千載一遇の素晴らしい幸運な邂逅があったことと思います。 
 一人歩きも覚束無い木視協をいみじくも糾合し毎年至難の計画を寝食を忘れて奔走して下さるリーダー各位の手練に私はその報徳の言葉も唯唯痛み入る限りでございます。
 あひるの歩きは遅遅としていますが、心は嬉嬉として軽やかです。明日は白鳥になるかもしれない夢多きあひるなのです。
 口幅ったい事ばかり並べましたが、今、此の20年の過去が結実し記念誌となって大きなモニュメントの花を開こうとしています。私も皆様の厚意に甘んずることなく虚心坦懐で精進し、又、次回も参加させて戴きたく思います。
                        
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      「楽しい一日」
    
                       「君津中央病院」  小俣昭春
 日常私は、汗をかく程体を動かす事がありません。同じ障害を持っている方で、積極的に行動しておられる方もいらっしゃいますが、性格的なものも手伝って、私にはその勇気がありません。何時でも僕は誰れかに頼ってしまいます。眠っている。この僕の血潮を一日だけ踊らせてくださる、一年に一回のあひるの会は楽しい一日なのです。
 田代先生にフィルドアスレチックで、いろいろなものを体験させていただきました。あの日も今だに味わったことのない心地よい汗を思う存分にかきました。
河原でのイモ煮会、あの味も忘れることができません。
 あひるの会の伊藤さん、角田さん、鳥沢さん、中村さん、そして、その他多勢のボランティアの方々に、大変ご苦労がおありだった事と思います。心から厚く御礼申し上げます。どうぞこれからも私達のために、この運動を続けてほしいと思います。
         
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      「楽しき出合い」
    
                      「富士見治療院」  橋本百合子
 遠き日、若き日、あの人、この人と共に歩いた野山の思い出多き歴史の一ページを、めぐって見ることにしましょう。
 人生の大半を過ぎた私も、20年前といいますと30代、今から思えば、すばらしき時代に、「あひるの会」の皆さんとの出合いがあったわけですね。
 たしか最初は、野草を食う会に参加したのが、今でも脳裏にはっきり焼きついております。小高い山の上で、セリ、木の芽等の天ぷら、ごま合え、しいたけ等、大なべでの、おつゆ物がとてもおいしく、おべんとうのおにぎりも、よく食べられたものでした。子供達も、はしゃぎ、牛乳等もしぼりたてのものを、ご馳走になりました。又、山歩き中ウグイスの谷間での鳴き声は、格別な心の洗濯の様な、潤いと、ゆとりさえ感じました。何キロも歩くことは大変なこと、しかし、汗をかき完歩した時の喜びは、何物にも、かえがたい喜びでした。
 最近、ボランティア活動が、そちこちで行われている様ですが、30年前では、余り耳馴れない言葉でもあり、事実、現在ほど地域社会の活動として、なされない時代でもあったわけです。
 ある篤志家の社会奉仕等が事の始めであったが、近来は、一般の方々が気軽に、良き指導者のもとで、活発に活動がされており、好ましい限りです。よく皆さんの活躍を通じて、良き指導者がいるなあーと思います。社会的にも、リーダーが中心となって、よくチームワークのとれた絶ゆまぬ努力を重ねておられる処に、敬意を表します。
 適当なスリルを体験出来る山、坂を歩いたり、キャンプ、富士登山等、視力のない人達に、希望と喜びを与えて下さった。その陰の力、心くばり、20年経った今日まで、唯一度の事故のないことが証明しています。いつまでも「あひるの会」が存続することを願いつつ、皆様に感謝いたします。
         
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      「音楽好きで、努力家で、根っから明るい私の仲間」
    
                 「木更津郵便局郵便課」  洲崎和猪
 アヒルの会で皆さんとうたって、早くも10年がすぎました。歌がうたいたくて木更津の混声合唱団に入ったのも今から10年前でした。
 私と同じ頃入団されたのが、木視協の岩崎さんと岩井さんのお二人。
 団のたのしみは何といっても、年1回の夏の合宿です。お二人ともお酒が好きで、歌が好きで、そして根っから明かるい。レッスンではピアノの音を素早く音譜に打ちこみ、しかも正確に声を出します。すべてに恵まれた私が、お二人に音楽を教わるという不思議な光景はすでに十年続いているのです。
 自分の怠慢さに腹立ちながらも努力しようとはしないのである。このあまえはこれからも続くことでしょう。
お二人のご努力に敬服しながら…。
 でも目の見える私達でなければどうしても出来ないことがあると思う。そういう時に少しでも何かお役に立ちたいと思っています。こういう私を見てか、家内も点訳のお手伝いをはじめました。アヒルの会で、さわやかな歌声がいつまでも響くことを念じています。
         
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      「ふれあいを大切にしよう」
    
                 「木更津郵便局集配課」  重田繁夫
 あひるの会も歩き出してもう20年、ほんとうに早いものですね。今思えばなつかしい事ばかりです。
 私がこの会に初めて参加したのは、たしか第3回くらいからだったと思います。高宕山周辺でのハイキング会はけわしさもあり、又楽しさも多かった。野山を吹きぬける風が木立をかきわけ、青葉や花の香りをはこんでくれた。「ホラ!そこに木の根が出ているよ!足を高く上げて歩いてね」「今度は下り坂だからすべらないでね。」と声をかけ合いながら、時には暗いトンネルにさしかかり逆に手をひいてもらったりした事など、ついきのうの様に瞼にうかんできます。特に私の記憶に深く刻まれているのが、昭和42年夏の富士登山である。
 全員が登頂出来る事を願いながら、バスで5合目へ、5合目からはチームを組んで登り始め、6、7合と上に行く程けわしさが増し、手足にかすり傷をつくりながら登られた方もあった、7合目に小屋をとり、翌日頂上をめざした。8合目から少しづつ足元が良くなり、歩きやすくなって来たがあいにく小雨が降ってきた、みんな声をかけ合い励ましながら頂上をめざした。しかし、残念なことに風が強くなった為に登頂を断念し下山をしなければならなかった事、又下山途中に落石に合い、全員が、ハッ!とした事など忘れようとしても忘れられない一コマである。しかしよくあそこまで登ったものだと感心をする。出来れば頂上に立って、皆んなでバンザイをしたかったなあ…と今でも山の天気を憎みたい。思い出せばきりがないが、その都度なつかしい思い出があるものです。
 ある本の中に、人は様々な生き方で勝手な表現をし行動する動物である。と書いてあったが、この会はそれをうまくお互いが感じ取って、少しでもいいからふれあいの場を大切にし、本音で表現し合う会ではないかと思う。そして20年という月日を過してこられたのも、静かに生まれた友情と信頼があったからこそと思います。今後も共に歩き、話し合ってみんなの大きなふれあいの場となるよう、そして思いでをさらに大きく育てて行きたいと思います。
       
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         「あひるの会参加の追想」
    
                      「川口マッサージ」  川口好子
  頭を雲の上にだし
       四方の山を見下ろして  
と、詩に歌われしあの富士山に、自分の足跡をつけることなど、夢にもおもわなかったあの富士登山に参加出来たことは、私達盲人にとり一生忘れることが出来ません。
 これを計画し、実行にうつされた方々のご苦労は、さぞかし大変なことだったと思います。
 昭和42年7月23日24日の両日にかけておこなわれました。23日の午後3時過ぎに登りはじめ、夕日を背に受けて、山肌をバラ色に染め、雲の中に入ると、霧の中にいる様な気持で、これが本当に雲の中なんだなあと、云う体験を初めてしました。
 だんだん夕もやに閉ざされて、足場も次第に悪くなり、岩場の道をお互いに助けたり、助けられたりしながら、やっと7合目の小屋へ辿りつきましたが、高山病の為ふらふらして立っている事が出来なくなり、頂上へ登ることをあきらめざるを得ませんでした。しかし、そのお陰で7合目の小屋の前で、ゆっくりとご来光を見ることが出来ました。
 乳白色の朝もやが次第に薄れて、遠くの下の方にある富士五湖のいくつかの湖面が姿をあらわし、あたりがはっきりしてきて、やがて山も空をも、湖水をも紅に包まれて、厳そかなご来光を迎えることが出来ました。
 僅かな視力のうちにも、目の奥にやきついております。いっしょに残ってくださった角田さんが、ご来光の様子をこまごまと説明してくださって、とても嬉しかったです。
 朝、顔を洗うことなどすっかり忘れていましたら、角田さんが水筒の水でタオルを濡らしてくださって、初めて(あ、顔も洗うことを忘れてしまった)とおかしくなりました。
            
     ますらをと 富士が嶺にて むかえしや
  厳かならん ご来光を えん
      
     ―西湖・津久井湖にてー
     しづまえぬ 湖水の面は えにしえの
  里を 忍びて みどり 映さん
         
 私もあひるの会には、11、2回参加しましたが、2番目に印象に残るのは、石射太郎山の参加した時のことです。
 山の尾根へ尾根へと登り、ツツジの花をくぐりながら歩き、ロープをつたって谷へ下り、そして又ロープを使って急な階段を登りついた時は、本当に山登りをしたという気持ちで、自分自身でも満足感を充分に味わうことが出来ました。
 でも、あの急な階段で、ロープを何人かの手で支えておられた方達は、とても危険なことだったと思いました。
 私達盲人も、リーダーになられた方や、ボランティアの方達も、家族ぐるみで参加し、歩けなくなった子供達をリレーでおんぶして山を下り、おんぶされた子供は大きな背中に安心したので、とうとう眠ってしまったこともありました。
 15、6キロは歩いたでしょうか、しまいには子供達が、誰が一番早く着くかと駈け出して、とうとう子供達のペースに巻き込まれるように、皆んな一生懸命で、落後者もなく、とても楽しかった体力作りだと思いました。
 昨年のキャンプの様子をテレビで拝見した時は、とてもなつかしく、昔のことを思いだしました。
 どうぞこれからも、このあひるの会が、いつまでもつづかれることを願っております。このあひるの会の御協力者に感謝しております。
   
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      「山野精霊」
    
                     「元木更津郵便局」  宮崎正三郎
 目の不自由な人達と、木更津アルペン山岳会の人達とが結成した、一日自然に親しむ、アヒルの会のハイキング。その日は、会員の一人ひとりが山野の精霊と出合い、己自身も、人間を忘れて精霊となる日である。
 アヒルの会のハイキングは、毎年5月に行われて、私も4、5回参加したが、私の記憶にある限り、当日は、朝から快晴であった。例年のとおりサカモトデパートの前から、貸切バスに乗車して、1時間余り、会長から行動中の心得や、バスガイドの説明を聴きながら、隣席同志で雑談をしているうちに、何時の間にか童心が蘇る。
 目的地に近い所定の場所に到着して、バスから降り、小学生のように並んで手をつなぎ、太陽へ向かって歩きだす。やがて、山林道に入り、清澄な大気を深く吸いこむと、何時もこの辺りに住んでいるような気分になり、前後左右に鳴き交わす鶯の声と、ゆく春の草を踏みしめて、坂道を上り、落葉の積った、けもの道を、音を立てゝ歩き、急峻な斜面の崖道を、用心深く通り過ぎて、ようやく目的地に辿り着く頃には、直上に輝く太陽の光に包まれて、心の底まで、山野の一木一草の緑に染まり、毎日仕事に追われて、心に傷を持つ者は痛みを忘れ、眼の不自由な者は暗さを忘れた。
 目的地の広場で、野の花々に触れてゆく風の弦楽や、ピアノを弾く谷川のせせらぎの旋律を聴きながら、皆それぞれのお弁当を食べて、満ち足りた幸福感に浸っている時、一瞬、人間界の時が止り、神々の時の鐘が鳴り響くと、森の中から、美しい精霊の乙女達が、面に微笑をたたえ、音もなく現れて、ゆるやかに纏ったうすぎぬを、羽根のようにひるがえし、舞い、舞いながら近づいて来る。会員達は、人間の形から静かに離れて、精霊の乙女の指に誘われ、唄い、踊り始める。或る者は、小鳥になって精霊の乙女と共に、明るい陽ざしの降る野面を飛翔しながら囀り或る者は、野草の花から花へ、流れるように舞い踊り、神が与えてくれた自然界の時間の中で思いきり楽しむ。
 互助と愛情に満ちたアヒルの会のハイキング。その日は、会員の一人ひとりが、山野の精霊と出合い、己自身、人間を忘れて精霊となる日である。
      
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      ヘルパーを体験して
    
                     清和短大附属高校出身  竹内美絵
 「五月晴れとは、今日の様な天気を言うのだろうか。」
 その日は、穏やかに晴れ上がり、新鮮な朝の空気が満ちあふれていた。「おはようございます。」と、元気な声が、あっちでもこっちでも交叉している。
目の不自由な方とガイドヘルパーとがペアとなり、席を共にする。私の耳元で、「今日は一日お世話になりますね。」と、その方は静かにささやいた。バスに皆が乗り終えてから、いざ出発というあの瞬間、私は、背筋に緊張感を覚えた。
 バスの中での自己紹介があり、皆の気持ちがほぐれた所で目的地に着く。
 山道は狭く、雨上がりで濡れた山肌は、ともすれば足をとられそうになる。自然とつないだ手に力が入り、お互いの手が汗ばんでくる。ふと、「せせらぎの音が聞えてきますね。小川が近くを流れているのですか?」と、その方はニッコリ微笑んで言った。私はすぐに返事が出来ず、耳を澄ました。さらさらというせせらぎの歌が、突然の様に聞こえてきた。ハッとした。気が付くと私は、ガイドヘルパーの立場ではなくなっていた様だ。そう思わせる程その方は、未熟な私の導きに不安げな顔色も見せず、ついには、お互い助け合いながら歩いていたのだから。身体の上では、何不自由のない私と思っていたが、『心の目』を持たない私は、自然の中にいながら、自然を身近に感じ取れなかったのです。目の不自由なその方に、大切なものを教わった様な気がします。この一日がとても貴重な思い出として私の胸に刻み込まれました。これからも機会あるごとに、皆様と御一緒させていただき、共に手を取り合って、励まし合う事が出来たら、この上なく幸せな事と思います。
 皆様方の御多幸を心からお祈りいたします。
      
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      「あひるの会」ハイキングを体験して
    
                        君津高校 1年  渡辺安代
 私は今、高校1年生です。生まれてから、いろいろな経験をしてきました。しかし、福祉という事に関しては、何ひとつ、やった事がありませんでした。私にとって、福祉とは社会の教科書や、道徳の本の上での事、と軽く思っていました。今考えると、何て無責任な事を考えていたのだろうと思います。
8月5、6日と、亀山ロッジへキャンプに行きました。このキャンプも最初はあまり乗り気ではなかったのです。なぜなら、キャンプへ同行する方々の多数が目が不自由であったからです。私自身、自分の事で精一杯の時が多いのに、そういう方々のお世話なんて、無理だ。まして、初めての体験でもあるし…。と、逃げ腰だったのです。しかし、母に説得されて、半分不安も拭えないまま、木更津駅へ行ったのでした。そこから先は、みなさんも御存知のとうりです。私としては、一生懸命やったつもりでも、失敗を幾度となく、くり返して大人のみなさんの足を引張ってしまい、大変申しわけなかったです。
キャンプファイヤーの時、私は一日をふり返ってみました。昼に家を出たときは、ブツブツ言っていたくせして、今は、その気持ちのかけらも心にない事に気がつきました。たぶん、一日が私にとって何もかも、初めての体験であったから、驚きや、楽しさで、不安な気持ちが吹き飛んでしまったのでしょう。それから、このキャンプファイヤーの美しさも、私のようなものが見るより、あひるの会の一人一人の人が見るほうが価値あるように私は思います。でも目が不自由なのが残念でした。
二日目の帰りの久留里線で、私はさすがに疲れて寝てしまいました。橋本さんのおばさんによりかかって、グーグーとです。今、考える事は、橋本さんのおばさんに、すみませんでした!の一言だけ、本当に最後の最後で気をぬいてしまって、はずかしいです。
あれから4ヶ月が過ぎました。何て早いのでしょう。私の頭の中には、まだ、あの時の事が残っているというのに、時間はこれからも、どんどん進んでいきます。そして、私も母くらいの歳になる事はまちがいありません。しかし、今回のこの貴重な体験で得た事は変わることなく残っていることだろうと信じています。最後に、今の私の福祉についての考えについて、福祉活動をする場はいくらでも自分のまわりにある。だから、他人事ではないのだ。自分という人間が、心身の上で、健康であるなら、自分とは逆の立場の人々の手となり、足となり、目となりして、尽くすという事が当然のように思います。ただ、それを実行にうつすとなると、大変な勇気が必要です。私だって、偉そうな事を言っているけれど、やれるかどうかは疑問です。でも、いままでの私とはちがうのだから、必ず、やれる事と私は、私自身を信じています。
私に、良い機会を与えてくれた伊藤のおじさんに、又、私の失敗を笑って見ていてくれた、あひるの会のみなさんに、感謝の気持ちを贈ります。
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      「あひるの会」に参加して学んだこと
    
                   清和短大附属高校 3年  臼井ちとせ
 『あひるの会』に参加してから1年半ほど過ぎましたが、あの時に経験した事は今でも心に残っています。
 5月3日、よく晴れた日でした。初めての参加のことなので何も知らず、不安を覚えました。一人づつペアになってその1日はずっといっしょに過しました。
 私は佐久間さんという方と行動を共にしました。初めは何を話せばいいのかわからずにあせっていましたが、一応自分の自己紹介からはじめて、次第に話しも増えてきて楽しくなってきました。私は話す言葉も気をつけて一つ一つ考えながら話しました。時には辺りの景色をなるべく細かく表現してみたものの、うまく言葉に表わせず困ったことを覚えています。
 道は雨降りの後のためにひどく、そのうえかなり急な坂道で、目の見えている私でさえ何度もすべりました。そんな時は、つい自分の身を守るために佐久間さんのことを忘れてしまい、すべらせてしまいました。もしけがでもしたら…。と思う心配と不安で、自分の力のなさを責めました。
 やっとのことで目的地に着くことができた時は、安心感と疲れで全身の力が抜けるようでした。しかし、あの時に吹いていた心地よい風は忘れることができません。
 健康であることを当然のことに思い、今まで生きてきましたが、その時はじめて健康のありがたさを感じました。
 人のために何かをすることが、あれほど難しく感じた事はありません。けれど、あの一日ほど充実し、満足感を味わったこともなかったでしょう。
 頼りなく、力のない私でしたが、もしまた機会があったなら参加したいと思います。
       
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      「あひるの会」の人々に接して
    
                   清和短大附属高校 3年  榎本勝子
 あひるの会、創立20周年、おめでとうございます。20年という長い年月には、いろいろな歴史が、あったことと思います。現在の状況は、過去の失敗や、多くの人々の御支援と御苦労のもとになりたっているものと思います。
 私が、実際に「あひるの会」の人々に接したのは、2年前のハイキングにヘルパーとして参加した時でした。それ以前に、見かけたことはありましたが、ヘルパーというような大変なことを、自分がやるとは思っていませんでしたから、ただ、緊張するばかりで、ヘルパーなどと、だいそれたことは言えず、逆に足手まといになってしまったようでした。
 私は、2回ハイキングに参加しましたが、いずれも、学ぶことがたくさんありました。私達が普段、気にもとめず、見のがしてしまっていることを、一つ一つ、きちんと受け止めていることに、一番感激しました。川の淵を歩いていた時、川の音の微妙な違いを聞き分けていたり、鳥の鳴き声に耳を傾けていたりしました。自然というものを、体で受け止めているようでした。そのような光景を見ていて、自分を、はずかしく思いました。
ハイキングに参加したことにより、周りを見る目が少しではありますが、変わったように思います。お役にたてるかどうかわかりませんが、今後、又、機会がありましたら、ハイキングだけに限らず、お手伝いしたいと思っていますので、声をかけて下さい。
       
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「ヘルパーを体験して」
     
                   清和短大附属高校 3年  山本希美子
 「あひるの会」20周年おめでとうございます。私は、1年の途中からJRCという部活に入ったので去年はじめて、あひるの会に参加しました。もうとても不安でした。私達は、ヘルパーとしてお手伝いしたわけですが、(私なんかに出来るだろうかとか、みなさんの役に立てるだろうか、どのように接したらよいのだろうか)とか不安だらけでした。岩井さんという女性の方にヘルパーとしてつきました。今から私が岩井さんの目となって頑張らないといけないんだなぁ―と思いました。ハイキングは、決してらくではありませんでした。すべりやすくて、土がぐちゃぐちゃだったと思います。私がしっかりしていないといけないと思って、一生懸命に「はいそこです。気を付けて下さい…。」と言いました。
 私のヘルパーの仕方がへただったので、岩井さんにはとても迷惑をかけてしまったと思う。
 私にとって、はじめての経験でした。不安だらけで、わからないことばかりでした。でもなんだかとてもうれしかったです。無事にハイキングが終って本当にうれしかったです。こんな私でも、ほんの少しでも役に立てたのかと思うと、とてもうれしくてたまりませんでした。今年は、あひるの会に参加できなかったけど、去年のあひるの会は、私にとって本当にいい経験したと思っています。
 みなさんも、お体に気を付けてこれからも頑張って下さい。本当にあの時はありがとうございました。
       
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    あひるの会20周年によせて
    
            「松丘郵便局」  鈴木 暉之
 1、 おめでとう20周年
 「あひるの会」20周年おめでとうございます。このたび会員の皆様方が20周年のあゆみをつづる本を記念出版されますこと、心よりお祝い申し上げます。そして私ごとき新参者に、その貴重な1ページが頂けましたことにお礼申し上げます。
 20年という歳月を考えてみますと、″オギャー″と産まれた赤ん坊が、″青春真っ只中″の20才に。
 20才の若者が、″不惑″と言われる40才に。
 40才の働き盛りの者が、″停年″と言われる60才に。
 60才の仕事を終えた者が、″平均寿命″と言われる80才になります。
 人生長くなったとはいえ20年は、一生で四区切りでしかありません。過ぎた20年を振り返ってみれば、その一日々々はほんの昨日の出来事のように手の届く所にあるのですが。これからの20年を考えました時、その20年は、過ぎた20年の月日の何拾倍、何百倍もの長い才月となって我々に振り注いでくるのではないでしょうか。「あひるの会」が変わらず20年続いた事に、20年という才月の重みを感じさせられた時、改ためてその歴史と情熱とに敬服をいたす所存でございます。
                        
 2、 彼との出合
 私は昭和20年生れでして、一つの区切りの年に生まれたと思っております。そして今年は昔風にいうならば、男42才の厄年にあたり、人生の一つの区切りではないかと思っておりました。そんな折、彼から記念出版の話しがありましたもので、この本を通して、一つの出合と私自身の一つの区切が出来ればと思い、ご無理をお願いし、書かせていただきました。
 今から20年前、当時私はまだ学生で、東京に下宿をしておりました。母が病気ということで急に帰郷をし数日家で過ごしました。母の病気が落着きましたので下宿に帰るべく、国鉄、久留里線、上総松丘駅、上り最終列車に乗りました。国鉄廃止線の話題にはいつも出てまいりましたこのローカル線の上り最終は、今も昔も変らづ午後9時前で、乗る人はほとんどおりませんでした。この日もホームには私一人でした。久留里線の終着駅が亀山で、その一つ手前が松丘ですので普段はこの両駅ともほとんど乗客者なしで走るのが常ですが、この日は例外でした。私以外にもう一人亀山から乗って来た若者がおりました。登山風の身なりをし、リュックを枕に、誰もいない座席に横になっておりました。私が乗りこみますと、彼が身を起こし目と目が会いました。その瞬間、この人が誰であるのか直感でわかりました。まったく始めて会う人なのに誰々であるとわかる事は不思議なのですが、不思議な事にわかりました。彼の事は、両親から「先輩として今後指導を願う人であります」と良く聞かされており、この帰郷した時も話題となり、頭にこびり付いておったからだと思います。これが彼との最初の出会いでありました。しかしこの出会いについてその後一度たりとも、彼との間で話題になった事はありませんでした。忘れてしまった一つの偶然の出来事でしかありませんでしたが、記念誌に載せていただくべき、何を書こうかと思った時、あの出会いが走馬灯のように頭に浮かんで来ました。
 「誰もいない、廃止寸前の、終着駅の一歩手前の、裸電球1個のうす暗いホームに、不幸の影を背負った若者が立っている」こんな姿を想像してみて下さい。映画ではありませんが、これほど人に寂しさを与える映像は、そうそうないと思いますが、それが当時の自分である事を思うとなおさらそう感ずるのですが。母の病気は、心臓病でけっして治らず、その後入院、退院をくり返し、昭和46年に他界しましたが、この時も一応の落着を取りもどしたというだけでしたので、心配でしかたありませんでした。そんな寂しさを背負って乗った列車に彼が乗っていたのです。彼が「おたくとは始めて会うが、お母さんや弟さんとは会っていますよ」と言って下さった言葉だけ今思い出せますが、あとはまったく記憶に浮かんでこないのです。自分だけが不幸を背負っていると思っていた当時、その列車の内ではからずも出会った彼に、おそらくは励まされたのではないかと思いますが、これから一人で誰もいないホームから乗って、誰もいない東京の下宿へ行く若者にとっては、彼との出会は、道に迷った登山家が山中で灯を見たのと同じ気持ちではなかったかと思うのです。出会った事その事がどんなにか心なごんだものだったか。
 その後母が入院した時などは、見舞に来てくださったりしたもので、良く顔を合わせるようになりました。彼は山登を趣味とし、木更津局の有志の方々とサークルを作り、市民活動をしておる事も知りました。10年ぐらいの才月が経過したのち、私も結婚をし落着いた生活に入ったころ、新ためて彼からさそいがあり、「あひるの会」に参加させていただく機会を得ました。そしてこの20年間、多くのはげましと、人生教師としての御指導を願ってまいりました。
                     
 三、 ボランティア活動
 彼を通し「あひるの会」に参加させていただくようになってからは、年に一度のハイキングは子供らも楽しみにする、我が家では年中行事の一つとなりました。多くの出会があり、その内で多くの汗を流して来ました。私は「ボランティア活動」といわれている本当の意味は存じませんが、一般に使われております「無料奉仕活動」という意味での、社会活動と申しますが、市民活動と申しますか、こういう活動には、一度も参加をした事はございませんでした。それは「無料奉仕活動」には、「奉仕」する側と、される側とがあり、する側が一時の慈悲の心からその活動をされた時、される側はそれをどう受け取めるであろうか、その事を考えた時、どうしても素直に参加出来ませんでした。人の善意がわからないなんて卑劣なやつだと言われそうですが、これが私の率直な意見でした。しかしこの10年「あひるの会」に参加し、又リーダーである彼を通して知り得た事は、ハイキングやキャンプで山歩きをしキャンプファイヤーをたく時は、多くの方々の善意の「無料奉仕活動」がありましたが、その活動は「無料奉仕活動」ではなかったという事です。ハイキングやキャンプの準備で汗を流した方々には、その流した汗は、すこしオーバーに言うならば、「自分がその瞬間生きている」その事を確認するかのような汗ではなかったかと思うのです。「あひるの会」に参加し流した汗は、その会に参加した全員が自分自身のために流した汗ではなかったかと、「自分自身のために汗を流すことが出来た」この一点が20年続いた秘訣ではなかったかと思うのですが。
                  
 四、 終りに
 「あひるの会」に参加した多くの方々は、この会を通して、多くの出会を作り、多くの汗を流し、多くの思い出を作って来たのではなかったかと、自分自身を振り返ってつくづくそう思うのです。
 「あひるの会」が続く限り、自分が歩ける限り、参加をさせていただき、多くの出会いと汗と思い出を作りたいと思います。
 今後とも「あひるの会」の皆様方がご健勝でありますことを御祈念いたし、20周年記念誌の散文といたします。
       
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          表紙のことば
    
                                 中村武
 河原に下りて、昼食をとる。
 うっすらと汗ばんだ肌を撫でる 風達に乗って、ウグイスやかえるの声、
  それに河原のせせらぎが、自然の調和を教えてくれる。
 小櫃川の河原や、豊英、清澄での つり橋の揺れる感触など、追憶の中
  にある 房総丘陵の風景を表紙にしてみました。
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          木視協会員  インタビュー
    
     野口 精さん
  健康法  明治36年生まれですから82才になります。大正5年、満12才の時に夷隅郡西畑村から木更津に出てきて契約7年ということで弟子入りしました。あれから70年もたつのですね。健康については、これということはしていません。食物も気にしていませんし普通の生活をしています。寝る前にオールドを飲んでいます。五日で一本ぐらいでしょうか。耳が少し遠くなりましたので仕事は古くからつき合いのある人をボツボツやっています。
  あひるの会に参加して
 今までずいぶん参加しました。富山、石射太郎山は、いっぱい歩きましたね。最近はヒザが痛くなりまして、59年の亀山の時は歩かなくてもよいというので参加しました。亀山ロッジで待っていましたが、ヘルパーとして付いてくれた清和短大附属高校生で清見台に住んでいると云う榎本さんが大変親切で、待っている間にロッジのまわりを案内してくれたり、まわりの景色を教えてくれたりして嬉しかったです。前の年の高宕山芋煮会の時も付いてくれて二年続けてお世話になりましたが、よく気のつく、やさしい人でした。
                  
     佐久間 敏さん
  趣味  戦争を体験した世代は、生きて行くのが精一杯で殆んどの人が趣味を持てないで過ごしたのではないでしょうか。
 ジョン・カルバンは幸福になれる人として「天職を全うした人」と言っていますが、天から与えられた仕事を一生懸命やれる人は趣味等を超越したものであると思います。私にとって仕事は趣味でもあります。
  あひるの会に参加して
 私は家の中にばかりいたものですから足が悪いと思っていましたが荻野さんが来て「春の野草を食べる会」に参加しそれから毎年ハイキングに参加しましたが、普通の人と同じように歩けるという自信を持ちましたね。そして一番印象に残るのは、やはり富士登山ですね。雨のため9合目で引返しましたが、その伊藤さんの決断が印象的でしたね。あとすこしでしたが、あれを無理して行った場合、あるいは事故があったかも知れないし勇断と云えると思います。それと、あひるの会の大きな功績は親睦ですね。それまでは偏見もあり商売仇としてお客様をとったとか、とられたとか陰険なものもありましたが、あひるの会になって和やかになりました。やはり春風に吹かれながら原っぱでお弁当をひろげて食べたことが和やかにさせたのですね。人の一生はいろんな人と出会いますが、ただ通りすぎて行く人もあり、ずっと一生かかわり合いを持つ人とありますが、あひるの会に参加した人は忘れられませんね。
                  
     岩崎 修、きよ さん
  趣味  (きよ)三味線を4〜5年やっています。時々、弥生会の皆さんと陶芸をやっています。他に手芸など。
      (修)市民合唱団でやっていましたが、このところ忙しくてやれません。音楽、特に抒情歌が好きです。
  健康法  (きよ)自己流でヨガ体操をやっています。主人はタワシで身体をこすっていますよ。
      (修)背中を100回、その他を200回、健康だわしで数えながらやっています。
  最近思うこと 
 (修)きのうも中学生が自殺しましたが、いじめもいけないけど、自殺するだけの勇気があるのなら、生きる勇気の方にもっていけないものかなあー、いじめられてもはね返すだけのものがないのかなあーと思います。
 (きよ)盲人に対してまだ理解が薄いじゃーないでしょうか。
 (修)私たちの方から社会をみると、ベタベタする人と、さりげなくサーッと手を貸してくれる人、全く無関心な人と三通りあるのではないでしょうか。さりげなく、これがいいですね。困っている時にサット手を貸して、名前も云わずに去って行く人、これ尊いと思いますね。
  あひるの会に参加して
 (きよ)富士山に連れていってもらったのが一番の思い出です、見えなくて連れていってもらっただけで気持ちがいっぱいです。お客さんと良く話しますよ。
 (修)やっぱり富士山ですかねー。
 (きよ)最初に行った時も印象深いですね。普通の道を歩くかと思ってハイヒールをはいて行きました。
 (修)山歩きは、はじめてなもんですから、ネクタイをしめてしゃれこんで行ったものですよ。まさに今昔の感ですね。
                  
     岩井 正・栄子 さん
  趣味・健康法  (正)自分の体は自分でよくわかりますから無理をしないようにつとめています。
  (栄子)下の子供(泰憲)が高校生なので自分のことより子供のことでいっぱいですね。
  最近思うこと
 (正)最近、問題を起こす子供が多いと聞きますが我が家の子供は今のところそういうこともないので、なによりも幸せだなあーと思っています。教育論については家内といつも対立するんです。私は野放しの方で家内は規則に合わせてきちんとやらせる方なんです。すぐに結論は出ませんが、上の子(一雅)がハタチの頃「勉強はやれって言ってくれた方が、よかったなあー」と言った時、勝負があったな、と思いました。
  あひるの会に参加して
 (正)第1回目に私は参加できなかったのですが、家内とウチに勤めている二人、それに従兄弟、そして長男が参加しました。その長男の一雅が23才になり、この亀山キャンプに車に乗せてきてくれたんですからネー。
 (栄子)その第1回目の時、河野牧場で雨が降ってきて、たき火をしたんですが、長男が危ないといって近よらせないんです。寒くて困りました。往復、おぶって歩きました。
 (正)一番印象に残っているのは石射太郎山ですね。長い石段、猿、そしてうぐいすの声が後を追うようにずーと聞かれましたね。帰りに川を渡り、こういうところで芋煮会をしたらいいだろうなと思いましたね。
 (栄子)芋煮会をやった58年は私のクラス会と重なり参加できなくて残念でした。すべって困った鹿野山コース(第2回)と第3回の大福山と一雅を伊藤さんにおぶってもらいましたね。富士山の時は主人に代表して出てもらおうと何もかも用意しておいたのですが、前日に食中毒をやってしまい参加できなくて本当に残念でした。今でもその大きなザックが眠っていますよ。郵便局の人たちが最初にやってくれましたが、それが今では方方で花開いています。千視協の婦人部長をやっているため歩行訓練などやっていますが、特に最近は若い人が声をかけてくれたり、席を譲ってくれたりしてありがたいですね。
 (正)長い年月積み重ねの20年、大変であったと思います。ふだん歩かないため膝が弱くなりましたが今後も歩きたいと思いますのでよろしくお願いします。
                  
     佐久間 実、登美江 さん
  趣味 
 (実)ワープロをやっています。″六点漢字″
 (登美江)手芸をやっています。
  健康法
 (実)玄米食とヨガのまね事をしている。3年位前からやっているが、体力をつけるのに役立っている。体力があるのは、玄米食のお陰と思っている。菜食を主としている。
 (登美江)私も最初は玄米食でしたが、今は普通食です。
  日頃感じている事
 (実)毎年このようにハイキングをやれるのも終戦後40年になるが、戦争がなかったからと思います。弱いものが一番困る世の中ではいけないと思います。又、20年も続いたことは、伊藤さんはじめ、人柄が続けたことと思います。グループが小さくなっても良いから体力の限界に挑戦してみたい気もする。
 (登美江)ボランティアの方達とめぐり会え輪が広がって喜ばしいと思います。今後、歩けなくなったら、集まって話し合うだけでもよいから、続けたらよいと思います。
  あひるの会に参加して
 (実)河野牧場での野草を食う会が、この「あひるの会」の始めで、野びるの酢の物やらあざみの天ぷら等が印象に残っています。石射太郎山の強行軍と、その帰ってきてから飲んだビールのうまかった事が今でも忘れられません。それから2回のキャンプ、それに何といっても「富士登山」でした。その頃人間は月に行くのが大変だったが、月に行く思いで登ったものでした。天候の都合で残念ながら8合目5勺位で引返してきましたが、大変印象に残りました。
 (登美江)私も「富士登山」が良かったと思います。雪渓の雪を握んだ時は、感激したのを憶えています。石射太郎山では子供に負けまいと頑張りました。
               
     橋本孝一、百合子 さん
  趣味
 (百合子)ピアノや園芸が大好きです。休みの日などは、土いじりです。
  健康法
 (孝一)勤務場所が富士見町なので、清見台の家から毎日歩いて通う事が健康法だと思っています。
 (百合子)食事について、野菜とか、果物を摂るようにし、肉より魚などを食べるように食生活に気を配っています。
    日頃感じている事、いいたい事
 (孝一)妻に感謝しています。
 (百合子)入院した事があるので、そう思うのでしょう。私は、あひるの会の皆さんに感謝しています。
     あひるの会に参加して
 (孝一)思い出に残るものは「富士登山」「キャンプ」「石射太郎山」などです。
 (百合子)野草を喰う会をきっかけに、いろいろ思い出は深い。富士登山の時は私も是非参加したかったが、丁度子供が病気で、その看病の為、参加出来ず残念でした。
キャンプも一人では計画出来ない事で、キャンプを通じてグループの楽しさを味わえて想い出に残りました。
               

     松崎吉男、幸子 さん
  趣味
 (由男)盆栽。茨城の五葉松を売りに来て買ったが、お客さんが夜露に当てると良いというので三日ばかり外に出したら葉が落ちてしまい、それ以来、余りやらない。
 (幸子)編み物が大好きです。
  健康法
 (幸子)夫がアレルギーなので、食事に気を配っています。柿の葉が良いというので、干して煎じて飲んでいます。
     あひるの会に参加して
 (由男)石射太郎山の時、まさかあんな急な山とは思わず、背広で革靴をはいて参加しました。その帰り道で、角田さんに「ヘビ」を首につけられてビックリした事が想い出にあります。
 (幸子)10周年キャンプは子供も小さかったし、印象に残っています。子供が河原でびしょ濡れになり、お世話になりましたので思い出深いです。
途中で三つ葉などを摘んで帰ったのを記憶しています。
               
     小俣昭春さん
  趣味・健康法
 趣味につながる健康法で詩吟をやっています。音楽鑑賞、フォークソングなど好きです。詩吟は昨年は全国大会で武道館で吟じ、今年は中野サンプラザに出場する予定です。
  日頃思っている事
 10年位前に耳を病った時には、姉や妹に大変世話になり、感謝しています。
  あひるの会に参加して
 三石山の時に一緒に歩いてくれた、木更津郵便局の近藤さんが山からの清水を飲ませてくれましたが、その時の清水のうまかった事が、今でも忘れられません。
「石射太郎山」は強行軍でしたが、疲れただけに思い出に残っています。ハイキングの時は、何時も天候が良く、かえるの声など聞きながら歩いていると、自然とは良いものだなあと、つくづく思います。
               
     酒井吉蔵さん
  趣味  私は最初は弱視で視力も0,3ありましたので、写真をやりました。現在は植木、日曜大工、俳句、テープ雑誌を聴くことです。
  健康法 
 座っている商売で、どうしても足が弱くなるので、努めて立つようにする「立ちんぼ作戦」をやっています。ラジオなど聞く時なども座敷で立ったまま聴くようにしています。
5月から11月までは、朝、冷水摩擦を行っています。そのせいか皮膚が滑らかになり風邪も引きません。
  最近感じている事
 日本語が乱れていると思います。例えば見られるを見れると云いますし、やたらと横文字を使います。方言は親しみやすいので、方言は使いたいと思います。
  あひるの会に参加して
 自分の事ばかり考える時代に、私達を楽しませてくれるあひるの会の皆さんに感謝しています。
            
     大胡 和さん
  趣味  音楽鑑賞、演歌、民謡、など好きです。
  健康法  以前は縄跳びをやってきましたが最近はやっていません。他には特にこれといったものはやっていません。
  最近思っている事、感じた事
 ちょっとの事、例えば「三浦問題」等で騒ぎ過ぎる気がします。すべて冷めてくると、全然取り合わなくなるように感じます。
  あひるの会に参加して
 最初の野草を食う会がやはり印象にあります。今まで10回程参加しましたが、歩く機会が少ないので、1年1回のハイキングが楽しみです。清和県民の森のアスレチックも楽しい思い出として残っています。
            
     大胡良子さん
  趣味  手芸
  健康法  全く気づかっていません。
  最近思っていること
 これと言ってありませんが仲間の人達と楽しく生きることを思い日々普通に過ごしています。
  あひるの会に参加して
 今までに3回参加しましたが、毎回楽しくまた参加したいと思います。今年のキャンプは20回記念ということで楽しかった。
            
     御子神源蔵さん
  趣味  5,6年前からはじめた将棋を続けています。又昨年8月ごろからダンスを仲間と始めています。
  健康法  血圧が高いので塩分控えめの食事に注意しています。
  最近思うこと
 郵便物で住所を点字で書いて受付けるところが出来たと聞いています。木更津局辺りで引受けてくれるとありがたいと思っています。又最近いじめが問題になり、自殺する子供も出ていますが、いじめは我々の時も有ったが自殺という発想はどんなことを考えるのでしょうか。
            
     御子神和子さん
  趣味  手芸をはじめて10年くらいになります。お花を造ったり、藤をあんでいろいろな物をつくります。又あみもの等もしています。又旅行も好きで、先日は雪を見に出かけました。″お花″を続けています。習ったのは草月流で2年くらいですが、今は自己流になって来ました。女の子はお花、お茶、何でも習うと良いですね。
  健康法  特に無いのですが主人が血圧が高めなので余暇に「ダンス」を習っています。終えた後は体がすっーとした感じがします。やはり体を動かすことが良いのでしょうか。
  最近思うこと
 近ごろの物価高が頭痛の種です。いじめの問題など新聞をにぎわせていますが、大人達の見る一方的な見方ではないでしょうか。
  あひるの会に参加して
 なんといっても第1回の野草を食う会でした。2才の子どもをおぶいながら木更津霊園へぬける長い坂道が大変苦しかったです。その娘が今は23才です。
         
     加賀美 豊さん
  趣味
 小鳥を飼っています。現在ほおじろが15羽います。その他に、山がら、うぐいす、あおじ、なども、飼っています。
  健康法  職業柄(食堂経営)スープを試飲していたため動物性の油ものを多くとりすぎて親指が痛くなり、酒も飲めなくなりました。動物性油は身体に良くないですね。そのため現在は植物性油に切りかえています。山にはよく行きますね。
  最近思うこと
 世の中不景気でよくないですね。食堂もよくないですよ。
  あひるの会に参加して
 58年の植畑―台倉コースが特に良かったですね。山の上に民家があって閑静でしたね。おじいさん(榛沢さん)が親切で、豚汁がよかったですね。みんな朗らかで楽しいですね。
         
     長倉としさん
  あひるの会に参加して
 参加するといつもいいですね。みんな印象に残っていて忘れられませんね。富士山の時は、今18才の子供が生まれる前で、亡くなった夫も参加できず残念でした。去年の亀山キャンプでは、静かすぎて、板の間でふとんが無く眠れませんでした。キャンプファイヤーでは10年前の伊藤さんの声を聞きましたがやはり年をとりましたね。あの頃は(10年前)は死んだ夫もいたなあー、と思いながら聞いていました。
  最近思うこと
 現在の生活に満足しています。これ以上、上を見ればきりがないし、下を見ても、しょうがないので、まっすぐ前を見ていますから。
         
     柴立末子さん
  健康法  特別にやっていませんが運動不足がちですのでなるべく歩くように心がけています。子供も気を使ってくれて車で出かけた時などなどわざと遠くの駐車場に止めて歩くようにさせてくれます。
  趣味  下手ですけど岩崎さんに入れさせてもらって一緒に民謡をやっています。それと婦人部の方に来て下さっている手芸の先生にあいている金曜日に来ていただいております。籠を編んだりしています。
  あひるの会に参加して
 54年の「市原市民の森」の時、長女が高一で長男が小学6年で3人で参加して楽しかったです。盲学校でもオリエンテーリングをやっていましたのでハイキングは、そう苦にならなかったです。しかし、その後運動不足で、59年の亀山コースの時は、山道に入るまでの登り坂が結構きつくてこたえましたね。全部で3回参加しましたが、私たちだけでは自然との触れあいができませんが、やっていただいてうれしいですね。
      
     池田江久子さん
  趣味  ママさんコーラスの合唱団で歌っていましたので歌が好きです。
  健康法  健康には自信があるつもりですが、最近、胃の調子が悪いので暴飲、暴食をしないようにしています。
  最近思っていること
 6年生になる一人娘がいるので子供のために何か残してやりたいと思っています。子供のためと言っているが実は自分の為でもあると思います。女の子なので最近、理屈っぽくなって話し合いでは負けてしまいます。私は性格が優柔不断なので子供の方がしっかりしているので良いと思っています。
  あひるの会に参加して
 私は初めて参加させていただきました。前から開業していましたが木視協に入っていなかったので参加できませんでした。去年の秋に入会しました。皆さん和気あいあいとしているので尻込みしてしまいそうですが、引込み思案な性格ではないのでキャンプはとても楽しく過ごさせて戴きました。
      
     池田守さん
  趣味  人のやっていることは何でもやりたいと思います。今はウグイスを飼っています。5年前TBSラジオに声の競技会で出場したことがあります。テープレコーダーに声を録音して、何度も聞かせて覚えさせました。
  健康法  何の運動でも良いから体を動かすことに心がけています。
  最近思っていること
 お客様との出会いを大切と心がけています。はり灸マッサージ治療だけでなく人間同士のつながりを大事に近くに来たら治療でなくても寄ってもらえる様なつながりを持ちたい。難しい会議では友達はつくれないと思います気軽な話し合いの中から友達を大切にしてゆきたいと思います。
  あひるの会に参加して
 毎年役員の皆さんにはお世話になります。キャンプは個人ではできない事であり、団体行動など学生時代を思い出して楽しかったです。
     吉田 隆さん
  趣味  いままでなかったが、3年前お客様にしこまれたカラオケが趣味となりました。
  健康法  塩分をひかえめに食べ過ぎに気をつけています。
  最近思うこと
 お客様は神様、お客様あっての私です。大事にしています。
  あひるの会に参加して
 私は第1回の河野牧場での「野草を食べる会」においっ子と参加したのが始まりでした。おいっ子と4年間一緒に連れて来てもらい、女子高校生にワラビをボストンバックに一ぱい入れてもらった思い出があります。
おいっ子が中学生になってから4,5年参加していませんでしたが、51年から再び参加しています。第10回キャンプも参加し楽しかった。今回もいろいろな催しがあり本当に楽しかったです。
      
     小林 巌さん
  趣味  ギター、アマチュア無線をしています。
  健康法  1,2年前から社交ダンスをしています。又歩くことが好きです。仕事の行き帰りになるべく歩くようにしています。
  最近思うこと
 子供たちのいじめの問題です。いじめは自分達の子供の頃にも多少は有ったものです。いろいろ有ってもそれに負けない強い精神力を持って欲しいと思います。
     あひるの会に参加して
 4,5年前頃からの参加ですがロープを使って歩くということを考え出されたのはすばらしいですね。ロープでの急坂の登り下りのだいごみは良いです。55年の大福山の時にはギターをひいていたら急に雨が降り出してあわててギターとアンプをしまい帰りました。中央高校の田代先生が「別れの一本杉」を唄ってくれました。ギターから、今は持ち運びのカラオケと時代は変りますね。
      
     小林千春
  趣味  手芸、あみもの等何かをつくることです。
  健康法  胃が弱いので食後は10分くらい右を下にして休みます。
  最近思うこと
 子供が小学生なのでやはりいじめの問題が気になります。
  あひるの会に参加して
 まだ2回程ですが、歩くことも良いのですが、近くの温泉等も良いと思います。
      
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      物故者の御冥福をお祈りいたします。
    
  「木視協会員」また「あひるの会々員」として、一緒に山野を歩き、また苦楽を分かち合った、次の方々の御冥福を、お祈りいたします。
  故 鳥海寛様
  故 長倉新一様
  故 高橋きみ様
  故 氏原寿代様
      
      あひるの会20年記念誌寄附者御芳名 (敬称略) (アイウエオ順)
伊藤義彦  岩井正  岩井栄子  岩崎修  岩崎きよ  池田守  飯島玉野  小俣昭春  大金保  川口好子  加藤富枝  加賀見豊  鴨田富男  木更津社会福祉協議会  近藤邦昭  小林巌  佐久間敏  佐久間実  佐久間登美江  酒井吉蔵  柴立末子  重田繁夫  鈴木暉之  洲崎和猪  竹内美絵  高橋悦夫  高橋恵久子  大胡和  大胡良子  積田行雄  角田廣行  鳥沢憲一  中村武  長倉とし  野口精  橋本孝一  御子神源蔵  御子神和子  松崎由男  松崎幸子  山岸等  柳谷礼子  吉田隆  渡辺香津枝
      



      あとがき
 ・めぐり、巡って、また春がやってきました。今年のハイキングも天気ならばいいのになあーと思います。過去20年のうちで雨で中止となったのは、たったの1回きりでした。幸運としかいいようがありません。
 そして今年のハイキング前に、この記念誌をお届することができて、編集委員一同、ホット胸をなでおろしたところです。
 ・昨年の20周年記念キャンプのさい「記念誌」の話が出まして、編集委員を決め、かなり押し詰ってから重い腰をあげ、作業に取りかかりましたが、口のように筆は動かず、四苦八苦しました。また資料が少なく、写真と記憶に頼りましたので「氏名もれ」等、多いと思いますので悪しからず御了承ください。
 ・しろうとの、編集委員が眠い目をこすりながらの作業でしたので、行き届かない点、誤字、脱字、等、多々あると思いますが、御容赦のほどお願いいたします。
                 (61・2・26 伊藤)
   
     ふみあと
   昭和61年3月1日 印刷
   昭和61年5月1日 発行
   編集委員長  伊藤 義彦
    副委員長  中村 武・ 佐久間 実
    渉外    鳥沢 憲一・ 御子神 源蔵
    会計    角田 広行・ 小林 巌
   発行者  木更津あひるの会
   印刷所  木更津印刷株式会社
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